俳 人

山本以南
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出雲崎の人。良寛の父。加藤暁台に俳諧を学ぶ。

諸国獅子門の俳人名録『俳人名録』に「以南 橘屋新之助」とある。

 安永4年(1775年)、木兎坊風石は象潟行脚の帰途出雲崎を訪れている。


   出雲崎には国の暁台も行脚也とかねて
   聞しも、佐渡へ渡りしとて逢す

雲のみね浪にもよせるなかめ哉
 木兎

  日もおちかたに薫り来る
 以南


 安永6年(1777年)6月1日、鴻巣宿の松村篁雨は山本以南亭に泊まっている。


八雲たツ出雲崎なる以南風叟に玉くしけふたゝひ
まみえ侍りて爰に故人の情を尽す

爰以南亭に一夜舎りて立出る


 寛政7年(1795年)7月25日、京都桂川で投身自殺した。60歳の時である。

 今はとゝせばかりに成ぬらん、越後国の誹諧法師以南といふものありけり。国々あまよひ歩きて、都にしばらく足をやすめける折から、脚気といふ病をなんやみける。させるくるしみは見へ(え)ねど、「ふたゝびもとのやうになりて、古郷に帰らん事おぼつかなき」などより添ふ者のさゝやきけるを、ふと聞つけつゝ、かくありて日をかさね月をへて、見ぐるしき姿を人々に指(ゆびささ)れんも心うしとや思ひけん、ある時、

      天真仏の仰によりて、以南を桂川の流にすつる

   染色の山を印に立おけば我なき迹はいつの昔ぞ

と書て、そこの柳の枝にありしとなん。


以南の句

箒目も崩さぬ庭やはるの雨


みじか夜やけうとき飯のたきならひ


荊棘なすながれのうへのつらゝ哉


あじろ守画んとすれバうごきけり


たきつせにあらそひかねて霧晴ぬ


雨雲のしどるにのころ暑かな


いくたひか炭焼けふり見るはかり


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