与謝蕪村ゆかりの地



肌寒し己が毛を噛む木葉経

益子温泉から益子市街に戻り、結城に向かう。


途中、外池酒造店(HP)で益子の地酒燦爛(さんらん)を買う。

真岡(もおか)鐵道に沿って国道294号を行き、下館で国道50号に入る。


結城に与謝蕪村(1716−1783)が滞在していたお寺があったはずだ。

市役所で尋ねると、地図をくれて弘経寺(ぐぎょうじ)を教えてくれた。


弘経寺


浄土宗の寺院で、関東十八檀林のひとつ。

弘経寺

 寿亀山弘経寺は、浄土宗の名刹で桃山時代の文禄4年(1595年)結城家18代の城主秀康(徳川家康の子)がその息女松姫追善供養のため飯沼(水海道市)の弘経寺の住職檀誉(だんよ)上人を招いて建立したと伝えられ、のち浄土宗の学問所関東18檀林の1つに数えられ、広くその名を知られました。

 寺には江戸時代の俳人、与謝蕪村が滞在中画いたすぐれた「襖絵(ふすまえ)」や室町時代作の「当麻曼陀羅(たいままんだら)」があり、ともに茨城県文化財に指定されています。

境内に蕪村の句碑があった。

蕪村の句碑


肌寒し己が毛を噛む木葉経

 蕪村の句碑は珍しい。私が蕪村の句碑を見るのは遊行柳に次いで、2つ目だ。

 蕪村は俳諧を早野巴人(はじん)に学び、寛保2年(1742年)同門の砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城にやって来た。その後弘経寺に移り住み、同寺に墨梅図、楼閣図、山水図などの襖絵を残している。襖絵は非公開だそうだ。

 元文2年(1737年)、巴人は日本橋本石町に夜半亭を構え、宋阿と号する。

砂岡雁宕の墓もあったようだが、気付かなかった。

 明和元年(1764年)12月3日、内山逸峰は弘経寺の鐘楼のことを書いている。

 此里の西町と云所に浄土宗十八檀林の内、弘経寺といふ寺に金銀をちりばめたる鐘楼有。高さ一丈八尺、三間四面、柱残らず金の柱にて、所々はげたり。柱毎に色々の草花などほりこみ、金を懸たり。外のめぐりには十二支のかたちをほりあげにして、悉くみな金を置たり。


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