2010年群 馬

高徳寺〜碑巡り〜
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大泉町古海に高徳寺という寺がある。


高野山真言宗の寺である。

高徳寺山門


山門の手前左手に芭蕉の句碑があった。


2句が刻まれている。

眼にかゝる時や殊更五月富士

出典は『芭蕉翁行状記』(路通編)。

元禄7年(1694年)5月11日、芭蕉は江戸を発って上方へ最後の旅する。

 『芭蕉翁行状記』に「箱根の關越て」、『芭蕉翁發句集』には「五月三十日の富士の思ひ出らるゝに」と前書きがある。

川上と此川下や月の友

出典は『続猿蓑』

元禄6年(1693年)秋、深川の五本松で詠まれた句。

山門を入ると、鐘楼の脇にもうひとつ芭蕉の句碑があった。


花の影謡に似たる旅寐かな

 貞亨5年(1688年)、『笈の小文』の旅の途中、吉野の平尾村で詠まれた句。

醫王山高徳寺


本堂の左手に児島高徳の詩碑があった。


天莫空勾践

時非無范蠡

平成8年(1996年)4月、建立。

児島高徳と高徳寺

 この高徳寺は後醍醐・後村上・長慶天皇と南朝三代の天皇に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開山されました。

 児島高徳は1311年備前国児島の尊瀧院(岡山県)で生まれて、1332年後醍醐天皇が隠岐へ流される時院ノ庄の御舘の庭で「天莫空勾践 時非無范蠡」という十字の詩を書いて自ら范蠡を以て任ずるの意を奏上しました。

 その後新田義貞の傘下で戦い、義貞死後は義貞の弟脇屋義助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子義治を擁して京都で再挙計画したが功ならず、正平7年(1372年)攝津の天王寺に行宮せられた後村上天皇に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命をうけて新田氏・宇都宮市・小山氏などの協力で兵一万を京都に向かわせるなど、新田氏との関係が深かった。

 この上州へ建徳2年(1371年)新田ノ庄に御滞在中の宗良親王の許へ使いしたのを契機として、この地古海に隠棲して軍中守護神であった摩担利尊像を安置し、宗良親王に仕えたり、南朝の再興にも苦慮した。11年……永徳2年(1382年)11月24日享年72でこの寺で永眠されました。

岡野鉄次郎

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