2011年岐 阜

養老の滝〜碑巡り〜
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養老鉄道養老線養老駅で下車。


駅前に「源丞内の像」があった。


孝子源丞内のお話

 昔 元正天皇の御時 美濃の国に貧しい男がいました。この男は山から薪を取って来て、それを売って年をとった父を養っていました。この父は、大へんお酒が好きだったので、男は「ひょうたん」を腰につけていて帰りにお酒を買って来ては父を喜ばせていました。

 ある日、山の中でこけの生えた石にすべって、うつむけにころんでしまいました。するとどこからか酒のにおいがするので、ふしぎに思ってあたりを見まわすと、石の間からお酒ににた水がわいていました。

 汲んでなめてみると、たいへんおいしいお酒の味がします。男は喜んで毎日このお酒を汲んで持ち帰り、父を喜ばせていました。

 このことはやがて天正天皇のお耳に入り、わざわざ養老へおこしになりました。そのお酒の出るところをごらんになって「これはこの感心な親孝行を神さまがおほめになり、お酒をおさずけになったにちがいない」とおほめになりました。そして年号を「養老」とお改めになり「養老の瀧」と名付けられ、この男を「美濃の守」という役人におとりたてになりました。

(うらも ごらん下さい)

「うら」は見なかった。

養老の滝に向かって歩く。

養老寺に立ち寄る。

明治38年(1905年)9月16日、長塚節は養老の滝を訪れている。

   養老の瀧

白栲(しろたへ)の瀧浴衣掛けて干す樹々の櫻は紅葉散るかも

瀧の邊の槭(もみぢ)の青葉ぬれ青葉しぶきをいたみ散りにけるかも

「ふるさと会館」の前に碧梧桐の句碑があった。


明るくて桃の花に菜たねさしそぶる

大正15年(1926年)3月の句。

 河東碧梧桐は明治6年(1873年)、愛媛県松山市に生まれました。

 正岡子規に師事し俳句を学びましたが、子規の亡くなった後、あくまで写生が句作の中心と唱えた同門の高浜虚子と対立し、新しい傾向の俳句運動をおこし、季題や趣味にとらわれず自然を個性的に表現することを主張し、全国を旅して碧門に所属する人をふやしました。

 この歌は、塩谷鵜平(岐阜県鏡島の人)の案内で養老を訪れた時に詠んだものです。

「この歌」ではなく、「この句」であろう。

「ふるさと会館」の裏の坂を上ると、「豆馬亭」がある。

「豆馬亭」の前にも碧梧桐の句碑があった。


庵に在りて風飄々の夏衣

画讃に「庵に風飄々のあり夏衣」とある。

 六朝体の雄渾な碧梧桐の筆跡そのままが刻まれています。

 中央下に「ひさご」が配されているのも印象的です。さらによくみると、この家のご主人・寸人豆馬亭の百歳記念の文字が碑の下に小さく刻されています。

 碧梧桐は昭和9年から11年まで数回にわたり、岐阜の塩谷鵜平の案内で養老に遊び句会や揮毫会を開き、随筆「養老の桜」や数多くの書を残しています。この歌碑は、昭和55年に建てられました。

「この歌碑」ではなく、「この句碑」であろう。

「千歳楼」の庭園には芭蕉の句碑がある。

「千歳楼」前の路傍に北原白秋の歌碑があった。


紫蘭さいて いさゝか紅き石のくま 目に見えてすゞし 夏去りにけり

 北原白秋は明治18年(1885年)福岡県柳川に生まれ、近代詩の代表詩人の一人として知られます。

 歌人としては最初、『明星』『スバル』の文学運動に参加して次々と新しい歌を発表しましたが、次第に日本的なもの、静かな境地を歌い上げるようになりました。この歌は昭和2年8月、大阪毎日新聞の新日本八景人気投票の審査のために、ご子息を同伴して養老を訪問された時詠まれたものの一つです。

 次の歌もその折のものです。

春あさみ せとの水田の さみどりの ねぜりは 馬に はまれたりけり

石のへの はしの落葉は けさはきて またながめおり ちりてたまるを

ようやく養老の滝へ。


滝百選・名水百選

養老の滝

 養老の滝は、「日本の滝百選」並びに環境庁の「名水百選」に選ばれている名瀑、名水です。また、水がお酒になった親孝行「養老孝子伝説」など故事来歴のある優れた霊水です。

 奈良時代、元正天皇は「万病を癒す薬の水」との報告を受けられ、美濃の国多度山の美泉に行幸されました。

 史書『続日本書紀』に記述されている元正天皇のお言葉があります。

 「自分で手や顔を洗ったら、皮膚はつるつると綺麗になり、痛むところも治った。また、この水を飲み、浴した人は、白髪も黒くなり、はげた髪も新しく生え、見えにくくなった目も明るくなった。目出度いことです。この水は、真に老いを養う若返りの水です」

 元正天皇は、「醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め、養老元年と爲すべし」と詔なさって、西暦717年に年号を「養老」と改められました。

 名水百選「養老の滝・菊水泉」の、「菊水泉」は、滝から約500m下の養老神社境内にあります。今では、滝の泉が上と下に分かれていますが、もとは滝の瀬として一つの流れでした。

 養老山から流れる水は、石灰岩層を浸透してきたもので、炭酸分やミネラルを含み爽やかで甘美な水です。

 元正天皇がお言葉された「長寿、若返り、健康」の霊水でもあります。

 明和元年(1764年)9月、多賀庵風律は田子の浦の帰途、養老の滝を訪ねたようである。

養老瀧ハたる井より三里はかり左の方高く尖りたる山のもとにひくき山あり其谷也其脇に清泉あり是を菊の水といふ也


 明和9年(1772年)、上矢敲氷は養老の滝のことを書いている。

一 養老滝、高サ十六丈と里人申。滝より五丁程下ニ天神宮アリ。社中より二筋の流レ出る菊水と云。


 安永4年(1775年)、木兎坊風石は象潟行脚の帰途養老の滝を訪れている。

   関ヶ原にとまり、明れは養老の滝に至
   る

菊水や実幾秋を汲みてしる
 木兎


 天明元年(1781年)、蝶夢は養老の滝を訪れた。

瀧の高さは宮古ちかき蓑面の瀧をうち見るやうにて、たゞ一すぢに落下するは、目もあやなるながめもの也。かくばかりおそろしげなる瀑布なればにや、大むかし元正天皇と申せし御門、御幸なさせ給ひて、この泉にて御面を洗はせ給へば、なめらかにならせおはしまし、または人の白き髪黒くなり、くらかりし目あきらかになり、もろもろの病いえぬとて、其代の年号をも「養老」とあらためたまひそとぞ。げにもその瀧のながれのいさぎよく、うまき味ひありて、おのづから齢ものぶるこゝちぞする。

   養老や歯のなき我も水むすぶ

『養老瀧の記』

 天明4年(1784年)、田上菊舎は細竹庵主人と朝暮園師匠と共に養老の滝を見に行った。

   或日、細竹主人と朝暮師と共に、養老の
   瀧見に到りて

山つゝむ霧打切て瀧白し
百茶坊

   朝暮師及予句並遺却。


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