私の旅日記〜2012年〜
弁慶庵〜惟然記念館〜

関市西日吉町に弁慶庵がある。
宝永3年(1705年)、広瀬惟然は弁慶庵に隠棲した。
弁慶庵

関市指定史跡である。
明和9年(1772年)、敲氷は弁慶庵のことを書いている。
○美濃国関ハ惟然坊ノ古郷。弁慶庵と言旧庵アリ、八畳二間也。惟然生前ニ娵一人、懐妊シテ行脚ニ出、十八年ヲ経テ関ニ帰ル。娵ノ名、つ万と云を聞て両袖に只何となく時雨哉かの娵後尼と成てチカンと言。弁慶庵ニ住ス。今かの庵伝て尼の住庵トナリテアリ。
惟然の句碑があった。

かうゐるも大切な日ぞ花盛
大正5年(1916年)に建てたものらしい。
露牛の句碑

稲の香や今朝は伊吹も軒の山
同じ句の碑がもうひとつあった。

稲の香や今朝は伊吹も軒の山
文政5年(1822年)、山川露牛は関町の薬種商「平賀屋」に生まれ、広瀬惟然の顕彰活動に尽力した。
明治37年(1904年)、没。
弁慶庵は惟然記念館である。
惟然の句の掛け軸があった。

なほ月に知るや美濃路の芋の味
惟然の像

庭木に隠れて芭蕉の句碑があった。

鶯や柳のうしろ薮の前
出典は『続猿蓑』(沾圃編)。
『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄五甲(ママ)ノとし」とする。
天保14年(1843年)3月、芭蕉の百五十回忌で山川露牛建立。
『諸国翁墳記』に「芭蕉塚 美濃國関弁慶庵鳥落社中 催主露牛・里樵建之」とある。
昭和4年(1929年)3月、荻原井泉水は弁慶庵を訪れている。
これが惟然の居たといふ庵であるのか――それとしてはなかなか大きなものだと思はせららる。身邊の用具として、僅に七つの道具を持つたきりで、其故にしやれて「辨慶庵」と名附けたといふ、簡素の生活の骨頂を行じてゐた惟然坊の庵としては、である。
「梅の花は散る ――惟然坊を尋ねて――」
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