井上山光明院善導寺は、承元2年(1208年)筑後国在国司であった草野水平の援助により浄土宗の開祖法然上人の高弟、大紹正宗国師聖光(しょうこう)上人(鎮西上人)によって開山されました。 当寺の開基に当り、草野水平及び弟永信が上人に帰依し、境内12町、七堂伽藍36の子院を建立し、水田75町を寄進したといわれています。 建暦2年(1212年)宋より伝来した善導大師の尊像を上人がこの寺に安置したと伝えられています。 3月27〜29日の開山忌には多数の参詣者が訪れます。 |
重要文化財(建造物) |
善導寺は承元2年(1208年)、筑後国在国司、押領使(内乱の鎮圧・盗賊の逮捕にあたる)であった草野氏の援助を受けて聖光上人(鎮西上人)が開山したと伝えられている浄土宗の寺院です。 江戸時代にも藩主有馬氏の保護のもと、伽藍の整備に努め、九州の浄土宗の本山として栄えました。広い境内には本堂、庫裡、三祖堂などの諸堂が立ち並んでいます。 大門は、一般には惣門といいますが、その厳重な板扉や大きな「終南山」の額等大門と呼ぶにふさわしい外観をもっています。屋根は切妻造の本瓦葺、柱は断面円形の本柱に、前後2本ずつ計4本の控柱がみられ、これを脚とみて四脚門と呼ばれています。門には両脇には各2間の袖塀がついています。 寺の記録によると、建立の年代は慶安4年(1651年)とあり、当寺内では最古の建物と考えられています。
久留米市教育委員会 |
蕉門第二世浅生翁壽元居士 |
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元文五庚申天正月三日 |
摂州大阪高津野々翁竹田氏 |
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俳名野坡七十八齢卒 |
元禄15年(1702年)10月頃、野坡は井筒屋安右衛門伊藤佐越方に来留。佐越は野坡の門人となる。 享保元年(1716年)冬、久留米の西与の許に足を留め、竹野郡塩足村の大庄屋塩足市山邸に長らく滞留した。 享保4年(1719年)冬、市山邸を訪ねる。 元文5年(1740年)1月3日、野坡は78歳で没。 元文5年(1740年)4月14日、野坡の百カ日に「如来塚」開眼供養。 |
樟は暖地に自生するクスノキ科の常緑喬木で、九州にとくに多い樹木である。 本樹は、善導寺開山の鎮西聖光上人が植樹されたと伝えられ、樹令約800年の老樹大木であり、善導寺境内の庭園樹として趣を添えている。 |
享保元年(1716年)、露川は門人燕説を伴って西国を行脚。善導寺に参詣している。 |
善導寺に参詣して、雪刀子が宅にあそ |
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ぶ。家は南を面に作るべしといへど、 |
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又、東より來る凉風もあれば、主の此 |
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物數寄を合点して |
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凉風をのがす日はなし二方窓 | 居士 |
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明和8年(1771年)5月、蝶夢は善導寺を訪れている。 |
明れば、かの男の案内に寺にまふ(う)づ。此寺は我門の第二祖聖光弁阿上人の遺跡なり。この門流をくむを鎮西流とは申なり。諸堂軒をならぶ。上人の廟所はちいさき五輪を立て、銘に曰、「専修念仏師聖光聖霊墓正助行不退遂往生極楽」と云々、古代の人の淳朴なる文章に随喜の涙を催す。 |
河野静雲は福岡市生まれの俳人。時宗総本山執事・宮城県亘理町専念寺住職等を務める。俳句は虚子に師事し、『ホトトギス』同人。 |
一田牛畝は粕屋郡志免町生まれの俳人。河野静雲に師事。昭和36年、『ホトトギス』同人。昭和57年、善導寺の六十三世法主。翌年、大僧正となる。 |
天明6年(1786年)三誉愍海上人代の再建である。間口15間奥行き14間半建坪217坪。本尊阿弥陀如来(座像)正面御拝口の柱は4本である。 この本堂再建の慶讃法要に際して、勅使派遣の予定だった。 それで勅使左大臣・右大臣の3人併進参殿の為4本柱の構造に造られたものである。 尚本堂の屋根の頂上には三葉葵の紋所が5個並んでいるが、500石の地所がついていた名残である。位牌壇(左側)には歴代将軍の位牌が安置されている。 |