沓尾松尾神社は、苅田松山城主の杉弾正弘信らの霊を祀るために、その重臣の子孫でありこの地の庄屋を代々務めた守田家の二七代当主房貫〔精一・号は蓑洲(1824‐1910)によって明治二十年代に建てられました。広大な境内には山県有朋の手による「江山豁如」碑や三条実美の揮毫した神勅碑、松尾芭蕉の句碑などがあります。神社のある沓尾山の西側は平尾花崗閃緑岩(ひらおかこうせんりょくがん)とよばれる火成岩からなり、境内には「獅子岩」や「烏帽子岩」と名付けられた奇岩が見られます。 松山神社の入口には「霊石」と呼ばれる巨石があり、上面にはこの石を切り出そうとしたノミの痕跡(矢穴)が残っています。松山神社周辺や北側の龍日売(たつひめ)神社の裏山は江戸時代からの石切丁場(いしきりちょうば)で、矢穴の残る石が多く見られます。ここから切り出された石材が、元和6年(1620年)の大坂城天下普請のため、小倉藩主細川忠興の命で海路大坂まで運ばれていたことが古文書と現地調査によってわかりました。 |
守田家は、守護大名大内氏の重臣杉氏の家臣でしたが、江戸時代の初め、沓尾に居を構え、代々庄屋や大庄屋を務めた家柄です。 現存する建物は、江戸時代末期、文久新地の干拓事業に尽力し、平島手永大庄屋をつとめた守田家第二十七代、守田房貫、号は蓑洲(1824〜1910)の頃に建てられたものを復原したものです。 屋敷は通りに面して築地塀を廻らせ、西側に薬医門、東側に冠木門を構えています。冠木門は明治4年に大橋洋学校教師として迎えられたオランダ人ファン・カステールがこの門をくぐって守田邸に入ったことからオランダ門とも呼ばれています。 主屋は、明治時代の初めに草葺から瓦葺に改修されましたが、玄関を入ると大和天井(簀子天井)や豪壮な梁などが残り、往時の雰囲気を良く伝えています。 室内の間取りは広間型五間取(いつつまどり)で、広間は3つに分けられています。奥の4室は奥座敷・次座敷・中の間・納戸からなり、奥座敷は、床の間や棚を設けた格式あるつくりとなっています。 奥座敷からは南側に、自然石の石組みで構成された池泉庭園が望めます。作庭時期は、幕末から明治時代初期と考えられ、沓尾山の自然や地形を巧みに取り込んだ趣のある庭です。
行橋市教育委員会 |