2022年愛 媛

神武天皇像〜白井雨山〜
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先哲記念館に「シーボルト家の二百年展記念植樹」があった。


 文政6年(1823年)7月、シーボルトオランダの商館医員として長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開く。

 文政10年(1827年)、楠本滝との間に娘イネをもうける。

 楠本イネは卯之町の町医者二宮敬作から医学の基礎を学ぶ。村田蔵六(後の大村益次郎)からオランダ語を学んだ。

 明治2年(1869年)11月5日、大村益次郎は大坂で没した。楠本イネはボードウィンの治療のもと、これを看護し最期を看取っている。

彫刻家 日本画家
白井雨山


元治元年−昭和三年

 本名は保次郎。当時鬼窪村であったこの地で佐平となみの四男として生まれ幼年期を過ごす。開明学校の開校と共に入学し暇ある時は絵を描きその才能を発揮していたと云う。明治18年上京し教員をする傍ら絵の修業を続け東京美術学校第1期生となり、入学の際には清水静十郎や牧野純蔵の推挙、また費用においても静十郎、末光三郎、本多好禮らの援助があった。専修科進級は彫刻科に入り、竹内久一に師事しヨーロッパに留学後は塑像を研究し我が国に新しい彫刻の世界を広げた。美術学校教授を退いた大正9年頃には文人画の復興に力を注ぎ、その作品を多く残しており県美術館で展示会も開催された。郷土の偉大なる芸術家を後世に傳える為、雨山公園の神武天皇像とともにこの碑を建立す。

平成18年(2006年)4月、建立。

雨山公園へ。


神武天皇像


大正6年(1917年)、白井雨山制作。

 宇和の生んだ彫塑界の祖

白井雨山先生

 白井雨山は、元治元年(1864年)3月1日、雨山公園下に、父佐平・母なみの四男として生まれ、保次郎と命名された。

 明治22年地元有志方々の後援と推挙により、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。彫刻を専修し、同校教授竹内久一先生の知遇を得る幸運に恵まれ、明治26年優秀な成績で卒業された。

 雨山は常に日本の彫刻界が西洋に遅れていることを憂え、意見書を当時の校長岡倉天心を通じて文部省に建白し許可され、塑像科が新設された事は我が国彫刻界に一時期を画した偉業と言える。

 その後、ドイツ・フランス等に2年間留学し、帰国後東京美術学校教授に任命され、母校の塑造を指導された。

 在職中に建畠大夢・朝倉文夫北村西望等彫刻界の第一人者となる弟子を育成された。

 この神武天皇立像は大正6年に雨山が制作し、ほかに明治天皇騎馬像・東洋三聖人等の作品が先哲記念館に展示されている。

 雨山は昭和3年3月に没し、ここ郷里白井家の墓地に眠る。

東京藝術大学に白井雨山先生像があるそうだ。

二宮敬作翁碑


二宮敬作翁碑文の解説

 二宮翁はその名を敬作、号を如山と云った。文化元年伊予西宇和郡磯津村に生まれた。父は六弥、母は茂と言い、家は代々農業を営んでいた。文政2年16歳の時、志を立て長崎に遊学し、同6年蘭医シーボルトに師事した。以後6年間、本草学・理学を学び大成する。富士山の高さを我が国初の洋式による測量をなし、また植物の新種を発見するなど、シーボルトは著書の中に、「ケイサキー」としてその名を後世に伝えている。シーボルトたまたま罪を得て投獄され、その罪門人に及ぶ。シーボルトは、2年後許され国外に退去するに際し、娘イネの養育を翁に頼んだ。翁は快諾して彼女の撫育に専念し、我が国初の女医に育てたのである。

 天保4年30歳、宇和郡卯之町に医業を開く。藩主伊達公、翁を藩医に準ぜられる。翁病人に懇切丁寧、貧窮者は金を取らず、皆感涙したという。嘉永初年旧友高野長英脱獄し、助けを翁に求め来町する。翁彼を自家にかくまいひ護すること2回に及んだ。安政3年翁再び長崎に赴き、子弟に蘭学を授ける。門人雲集して教えを受く。同年シーボルト再び来朝。幼女イネの成長を見、翁の恩に泣いて感謝する。文久2年翁の病革り59歳で没した。長崎の晧臺寺に葬る。大正12年朝廷翁の功を追賞し、正五位を贈られる。翁天資英邁。衆に抜きんで小事にこだわらず、人を愛し世を憂うるという烈士の風あり、唯単にすぐれた医者というだけの人物ではなかった。東宇和郡医師会は、翁の名を不朽とし後世に伝えるため此の碑を建てた。

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