日本最古の楠(樹齢3000年)で後冷泉天皇の御代(900年前)伊予国守藤原範国は能因法師を使者として祈雨のため、参拝させた。 其の時 「天の川苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神」 と詠じ幣帛に書付け祈請したところ伊予国中に三日三夜雨が降った(金葉和歌集)と伝えられている。 |
範国朝臣に具して伊予国にまかりたりけるに、 正月より三四月までいかにも雨の降らざりけ れば、苗代もえせで騒ぎければ、よろづに祈 りけれど叶はで堪えがたかりければ、守、能 因を歌よみて一宮に参らせて祈れ、と申しけ れば参りてよめる
能因法師
天の川苗代水にせきくだせあま下ります神ならば神神感ありて大雨降りて、三日三夜をやまざるよし家の集に見え たり |
日本総鎮守 大三島宮 大山祇神社由緒 御祭神 大山積大神 御祭神大山積大神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当り(古事記・日本書紀) 天孫瓊々杵尊の皇妃となられた木花開耶姫命の父神にあたる日本民族の祖神として、和多志大神(伊豫國風土記)と申し上げる、海上安全の守護神である。 地神・海神兼備の大霊神として日本の国土 全体を守護し給う神であるところから古代より日本総鎮守と尊称され朝廷を初め国民の崇敬は各時代を通して篤く中世は四社詣、五社詣の中心となり、平安時代既に市が立ち現在に続いている。 御分社は、全国に10,000余社祀られ、延喜式名神大社に列せられ伊予国一の宮に定められた。 明治以降は国幣大社に列せられ四国で唯一の大社として尊崇されている。 |
時宗の開祖一遍上人は河野通広の子として松山宝巌寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫に当たり、一遍上人絵伝に知られる通り大三島宮の参拝の折奉納したものです。 |
明治43年(1910年)11月12日、河東碧梧桐は大山祇神社に参拝して宝物庫に案内された。 |
瀬戸内海の島通いをする小蒸気に乗って、この島に着いたのは午後四時頃であった。旧知菅菊太郎と久闊を叙する間もなく、大山祇神社に詣でると、すぐ宮司の案内で、宝物庫に導かれた。国宝の甲冑類で、この宝庫に蔵せられておるものが日本全国中の八割という多数を占めておるという鎧及び兜を始め、太刀、鏡等何れも稀代の業物の説明を聞いた。 |
わが心ただよふごとし宮浦の入江の潮のゆたのたゆたに 大三島和多志(わたし)の神の宮浦の夕凪どきを船泊(は)てにけり あなかしこ大山祇の御社(みやしろ)の檜皮の屋根に照れる春の日 たそがれを大楠のもとに立ち待てど三島の翁現(あ)れまさずけり
『天 彦』 |
義経の |
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鎧まばゆし |
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緋縅の |
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真紅の糸も |
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いまが燃ゆがに |
大三島近づくほどに海のいろ太古のごとく深く澄み來ぬ 伊豫一の宮ある島の大鳥居海にうつりていや白く見ゆ 義経の鎧まばゆし緋縅しの眞紅の糸のいまか燃ゆがに
『旅 塵』 |