今年の旅日記

義安寺〜芭蕉の句碑〜
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松山市道後姫塚の県道187号六軒家石手線沿いに義安寺という寺がある。

義安寺山門


 本尊は、釈迦如来である。河野景通の子河野彦四郎義安が建立した寺であるので義安寺と名づけられたという。

 『予陽郡郷俚諺集)』に、天正13年(1585年)、河野家断絶のとき、同一族の者、譜代の老臣も加わって、ここ戒能の谷義安寺に集まり、二君に仕えないことを神水を呑み誓約して自刃したとある。

 この時に別れの水盃をかわしたという「誓いの泉」が、今も残っている。また、自刃した侍たちの精霊が蛍になったという伝説があり、このあたりの蛍は「義安寺蛍」、「源氏蛍」と呼ばれる大型のもので、川筋から山手にかけて蛍の乱舞する名所であった。

 現在は「お六部さん」として八のつく日には県外から祈願に訪れる人も多い。

松山市教育委員会

山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。


このほたる田ごとの月とくらべ見ん

出典は『三つの顔』。

   木曽路のたびをおもひ立て、大津にとゞま
   る比、先せたの螢を見に出て

此ほたる田ごとの月とくらべみん

享保11年(1726年)8月、『三つの顔』風扇跋。

 この句は、郷里に帰っていた芭蕉が、元禄元年(1688年)「田毎の月」で有名な長野県更科の月見を思い立ち、旅の途中、大津に留っている頃、まず、瀬田川のホタルを見に行って詠んだ句である。

 この義安寺付近は蛍の名所なので明治16年大原基戎らがこの句碑を建てた。

護国山義安禅寺


曹洞宗の寺である。

 明治25年(1892年)、正岡子規は義安寺の蛍を句に詠んでいる。

   義安寺

山門に螢逃げこむしまり哉

『寒山落木』(巻一)

 昭和14年(1939年)12月7日、種田山頭火は義安寺に参拝している。

 十二月七日 小春日和。

朝の一浴、そして一杯、ほんに小春だ!
身辺整理、洗え洗え、捨てろ捨てろ。
午後は近郊散策、道後グラウンドは荒廃している、常信寺はなかなかよい。
夕方、高橋さんを訪ね、同道して義安寺へ参拝、高商の坐禅会に参加する。
帰宿してまた一杯、また、……同宿同室は老人ばかり、しずかでさびしかった。

『四国遍路日記』

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