今年の旅日記

浄土寺〜子規の句碑〜
indexにもどる

伊予鉄道横河原線久米駅下車。

県道40号松山東部環状線を歩き、浄土寺へ。

浄土寺山門


 四国八十八か所の49番札所である。西林山三蔵院と号し、本尊は釈迦如来である。

 寺伝によると、天平年間(729−79)、僧慧明が創建し、孝謙天皇の勅願所となったという。天徳4年(960年)、僧空也が諸国遍歴の途中3年ほど滞在し、自刻の木像を残したと伝えられる。建久3年(1192年)には、源頼朝が伊予の豪族河野通信ともども家門の繁栄を祈り、堂塔の修理に力を与えている。境内に66坊を有する巨刹だったが、応永23年(1416年)、兵火で堂宇をことごとく焼失し、文明16年(1484年)に河野通宣が再建して寺の景観は旧に復した。その後、室町時代末期の兵火、更にまた、慶長5年(1600年)には河野氏の残党が毛利軍とともに久米で戦った「久米の役」によって衰微したが、その後、法印宥雄がこの寺の再建に尽くしたという。

松山市教育委員会

山門を入ると、左手に子規の句碑があった。


霜月の空也は骨に生きにける

昭和61年(1986年)9月、仙波廣輔建立。

 明治29年12月3日刊の雑誌「太陽」に載った冬の句で『寒山落木』巻5にある。空也(延喜3年〜天禄3年)(903〜972)は阿弥陀聖ともいわれ、3年間、浄土寺に立ち止まったとも。「骨に生きる」とは、「空也の肉体は白骨となっても、人々の胸には念仏の教えが今も生きている」の意。

 句碑の文字は高野山管長森寛紹大僧正の筆で、「白象」と号した。境内には白象の句碑も建立されている。

 昭和55年(1980年)11月15日、森寛紹は高野山真言宗総本山金剛峯寺第四百六世座主となる。

森白象の句碑


お遍路や杖を大師とたのみつゝ

昭和59年(1984年)11月、弘法大師入定1150年大法会記念に建立。

森白象明治33年−平成6年(1989−1994)

 森白象は温泉郡重信町(現東温市)出身。高浜虚子に師事した。

浄土寺本堂


真言宗豊山派の寺である。