2004年千 葉

志賀直哉邸跡
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我孫子に志賀直哉邸跡があるというので、行ってみた。


 手賀沼公園の前から細い路地に入ると、白樺文学館の向かいに志賀直哉邸跡があった。

志賀直哉邸跡


 志賀直哉邸にしてはずいぶん小さい家だと思ったら、離れの書斎だった。母屋は書斎の10倍くらいの広さがあったようだ。

 この地は志賀直哉のいた当時、我孫子雁明(がんみょう)であったが、弁天山と呼ばれた。

『暗夜行路』と『和解』

 小説家志賀直哉は大正4年(1915年)から大正12年(1923年)春まで我孫子にいた。30歳代である。「白樺」派の武者小路実篤や柳宗悦も当時手賀沼辺りで暮らしている。

志賀直哉夫人は、武者小路実篤のいとこ康子である。

 「小説の神様」といわれた志賀の生涯には「反抗と葛藤、和解と調和、静かな創作」の時代がある。我孫子時代は「和解と調和」の時代に当たり、多年の父との不和を解いて名作『和解』を我孫子で一気に書き上げた。

 志賀は手賀沼辺りで多くの作品を残している。代表作の『暗夜行路』は長編で、完成まで17年の歳月を要したが、前編は我孫子時代に執筆された。

昭和12年(1637年)6月6日、高浜虚子は武蔵野探勝会で手賀沼を訪れた。

 先程からしきりにお茶の世話やら何やかや斡旋してゐるがつちりした爺さんがある。これは本名を宇田川三之助、一名あびこの三蔵といふ。八年間志賀直哉氏に仕へた名物爺やである。今はこの谷口氏の別荘番をしながら二日隔きに手賀沼の渡舟守をしてゐるのである。

『武蔵野探勝』(さみだるゝ沼)

6月6日。武蔵野探勝会。我孫子。谷口別邸。

 飛ぶ蛙鼻より背に斑が通り

 遠く漕ぐ沼渡舟あり五月雨

 藻の花や母娘が乗りし沼渡舟

 藻の花のゆれて静まる舟の渡

 さゝさゝと音して漕げる花藻かな

 真菰中杭並びたる舟著場


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