私の旅日記〜2005年〜
万満寺〜大川立砂〜

JR常磐線馬橋駅東口を出て、突き当たりを左に行くと法王山万満寺がある。
建長8年(1256年)、小金城主千葉介頼胤が真言宗の大日寺を開いたのが始まりと言われている。現在の万満寺(臨済宗)となったのは康暦3年(1379年)。
万満寺仁王門

国指定の重要文化財として運慶による金剛力士像がある。
法王山万満寺

臨済宗大徳寺派の寺である。
小林一茶のよき理解者であり、また庇護者でもあった大川立砂(りゅうさ)は寛政11年(1799年)、没し、法王山万満寺に葬られる。
立砂没後、立砂の子斗囿(とゆう)が家業油屋とともに俳業も継承して一茶を後援し続けた。
松蒔(まい)て十三年の時雨かな
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木がらしや是は仏の二日月
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文化8年(1811年)11月2日、一茶が立砂の13回忌の法要に巡り合わせた時の句である。
文政10年(1827年)11月19日、一茶没す。
斗囿(とゆう)は天保4年(1833年)10月18日没し、立砂(りゅうさ)と同じく法王山万満寺に葬られた。
斗囿(とゆう)の追善句会の句が残されている。
斗囿居士の墓前にぬかつきて
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かれ色や仏達には留主もなき 八巣
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八巣一世桜井蕉雨は文政12年(1829年)5月7日に55才で亡くなっている。八巣二世八巣謝堂であろう。
親子二代にわたって一茶を擁護した大川家も今では絶え、墓も整理されてしまった。
万満寺の墓地に「先祖代々之墓」がある。
大川立砂・斗囿の墓所
馬橋の油屋大川吉右衛門こと、栢日庵立砂(寛政11年(1799年)歿)は東葛地方の俳諧人として有名でした。親子ほどの差がある小林一茶から爺と慕われ、彼のよき理解者であり、また庇護者でもありました。
立砂の子斗囿(天保4年(1833年)歿)も一茶と誹諧を通じて生涯深い親交を持ちました。
鍬かけて長閑にしたる榎かな
| 立砂
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山ぶきや草にかくれて又そよぐ
| 斗囿
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