私の旅日記千葉

補陀落山那古寺〜多宝塔〜
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館山市那古の高台に補陀落山那古寺がある。


新義真言宗智山派の寺である。

那古観音は関東八十八ヵ所霊場56番札所でもある。

仁王門


明治39年(1906年)8月10日、河東碧梧桐は那古観音を訪れた。

 那古の観音は形勝の地を占めた山の中腹に在る。山門の下に蓆を敷いて一人の盲目尼が坐っておる。


仁王像


   


鐘楼


阿弥陀堂


鎌倉時代造立で、県指定有形文化財。

阿弥陀如来坐像も県指定有形文化財。

多宝塔


宝暦11年(1761年)創建で、県指定有形文化財。

本堂(観音堂)


県指定有形文化財

銅造千手観音坐像は鎌倉時代の作で、国指定の重要文化財。

文明18年(1486年)、道興准后は那古観音に詣でている。

那古の観音にまうで、ぬかづき終りて、夕の海づらをながめやるに、寺僧の出で来て、あれ見給へ、入日を洗ふ沖津白浪とよめるは此の景なりといへり。されど、それは津の国住吉郡なごの浦をよめるとかや。そのなごの浦に難波津をまもれる人の住みしによりて、其の浦を津守の浦といひ、又、子孫の氏によびて津守氏ありとかや。今はなごの浦の所に、さだかにしれる人なしとなむ。此の歌いづちにしてよめるもしり難けれど、寺僧のいふに任せてしるすものなり。まことに今も入日を洗ふ沖つ波、眼前の景色えも言ひがたし。

    なこの浦の霧のたえまに眺むればこゝにも入日洗ふ白浪


「入日を洗ふ沖津白浪」は後徳大寺左大臣の歌。

なごの海の霞の間より眺むれば入る日を洗ふおきつしらなみ

『新古今和歌集』

本堂(観音堂)の手前に芭蕉の句碑があった。

芭蕉の句碑


春もやゝ氣色とゝのふ月と梅

明治22年(1889年)4月、芭蕉二百回忌に稻原路米建立。

 稻原路米は那古町稻原(現館山市小原)の山口茂兵衛。三世雨葎庵文酬に俳諧を学び、四世雨葎庵を嗣号。一澄に挿花を学んでいる。

本堂(観音堂)の奥にも芭蕉の句碑があった。

芭蕉の句碑


此のあたり眼に見ゆるものは皆すゝし

文政6年(1823年)、建立。

碑陰に「当国世話人」として「文守」「里遊」の名が見える。

『杉間集』配本扣に「山本 高木元生 文守」「末吉 松崎清吉 里遊」とある。

青空や空や葉月の天の河
   文守

行雁に来るや南部の子牽牛
   里遊


大黒堂


 宝暦10年(1760年)、露柱庵に滞在中の鳥酔は那古寺に遊ぶ。

那古千手堂上   別当補陀落山那古密寺 坂東三十三所終

   御詠歌 ふたらくやよそにはあらしなこの寺
                  岸うつ波を見るにつけても

      静さや浪の浄土の秋の風


 文化12年(1815年)11月27日、小林一茶は補陀落山那古寺を訪れている。

[廿]七 晴 久保ニ入 夜少雪 補陀洛山那古寺

『七番日記』(文化12年11月)

 文化14年(1817年)4月、一茶は再び補陀落山那古寺を訪れたようである。

   那古山

おのれ迄二世安楽か笠の蠅

『七番日記』(文化14年4月)

 大正10年(1921年)11月19日、与謝野寛・晶子夫妻は白浜・奈古へ旅をする。

那古寺の建立を待つもののごと十三人が鳩とたはぶる

凡骨と云ふ人の撞く普陀洛の鐘と知らざる那古の浦人

那古寺の普請の瓦まゐらせず海に比べて醜きがため

唯聴かず鏡が浦を行く船にものも云ふべき潮音の台

那古寺の湖音台に題すらくここより海へここより天へ

『草の夢』

 昭和9年(1934年)2月19日、与謝野晶子は那古寺を訪れている。

波しろし那古船形の御堂をば牙あるものの護る海とも

朱なれども海にひかれて光るなり那古の御堂は金鱗のごと

二婦人が車中の作を書ける見て更科日記を思ふ國かな

「いぬあじさゐ」

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