那古の観音は形勝の地を占めた山の中腹に在る。山門の下に蓆を敷いて一人の盲目尼が坐っておる。 |
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那古の観音にまうで、ぬかづき終りて、夕の海づらをながめやるに、寺僧の出で来て、あれ見給へ、入日を洗ふ沖津白浪とよめるは此の景なりといへり。されど、それは津の国住吉郡なごの浦をよめるとかや。そのなごの浦に難波津をまもれる人の住みしによりて、其の浦を津守の浦といひ、又、子孫の氏によびて津守氏ありとかや。今はなごの浦の所に、さだかにしれる人なしとなむ。此の歌いづちにしてよめるもしり難けれど、寺僧のいふに任せてしるすものなり。まことに今も入日を洗ふ沖つ波、眼前の景色えも言ひがたし。 なこの浦の霧のたえまに眺むればこゝにも入日洗ふ白浪 |
なごの海の霞の間より眺むれば入る日を洗ふおきつしらなみ |
稻原路米は那古町稻原(現館山市小原)の山口茂兵衛。三世雨葎庵文酬に俳諧を学び、四世雨葎庵を嗣号。一澄に挿花を学んでいる。 |
青空や空や葉月の天の河 | 文守 |
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行雁に来るや南部の子牽牛 | 里遊 |
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宝暦10年(1760年)、露柱庵に滞在中の鳥酔は那古寺に遊ぶ。 |
那古千手堂上 別当補陀落山那古密寺 坂東三十三所終 御詠歌 ふたらくやよそにはあらしなこの寺 岸うつ波を見るにつけても 静さや浪の浄土の秋の風 |
文化12年(1815年)11月27日、小林一茶は補陀落山那古寺を訪れている。 |
[廿]七 晴 久保ニ入 夜少雪 補陀洛山那古寺
『七番日記』(文化12年11月) |
文化14年(1817年)4月、一茶は再び補陀落山那古寺を訪れたようである。 |
那古山 おのれ迄二世安楽か笠の蠅
『七番日記』(文化14年4月) |
大正10年(1921年)11月19日、与謝野寛・晶子夫妻は白浜・奈古へ旅をする。 |
那古寺の建立を待つもののごと十三人が鳩とたはぶる 凡骨と云ふ人の撞く普陀洛の鐘と知らざる那古の浦人 那古寺の普請の瓦まゐらせず海に比べて醜きがため 唯聴かず鏡が浦を行く船にものも云ふべき潮音の台 那古寺の湖音台に題すらくここより海へここより天へ
『草の夢』 |
昭和9年(1934年)2月19日、与謝野晶子は那古寺を訪れている。 |
波しろし那古船形の御堂をば牙あるものの護る海とも 朱なれども海にひかれて光るなり那古の御堂は金鱗のごと 二婦人が車中の作を書ける見て更科日記を思ふ國かな
「いぬあじさゐ」 |
昭和46年(1971年)11月19日、高浜年尾は高蔵寺、那古寺を巡っている。 |
十一月十九日 坂東札所巡り 第三十番高蔵寺、第三 十三番那古寺 蜜柑生る裏山控へ札所寺 那古寺は南房札所小春凪 寺打ちて帰路は海路や小春凪 |