2005年千 葉

市川関所跡〜江戸川〜
indexにもどる

泉養寺から国府台に戻り、江戸川の土手を歩く。


『万葉歌』刀禰に作り、活字板『源平盛衰記』利根に作れり。)旧名を太井河といふ、(此号『更科日記』および『東鑑』等の書に見えたり。又『清輔奥義抄』に云く、下総国かつしかの郡の中に大河あり、ふと井といふ。河の東をば葛東の郡といひ、河の西をば葛西の郡といふとあり。証とすべし。私に云く、この河より西は葛西と称して、今武藏国に属す。


京成線の鉄橋


 文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は「江戸川」のことを書いている。

○市川の渡は吾妻鏡や仙覺律師(りし)が萬葉庭訓に太井川としるせし河也。俗には江戸川とよぶ。吾黨(とも)小竹茂仲のをぢが説に、江戸川といふは舟人の詞よりあやまれる名也。そは下總の境、關宿わたりより、此川筋を經て江戸へ通ふがゆゑに、舟人のわたくしに、さはよびけるを、近頃はたゞしき名とぞおもへるものもすくなからずといへり。


 『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月29日に「大井要害を見るべきの由」、10月2日に「大井・隅田の両河を渡る」とある。

江戸川の土手に市川関所跡があった。


市川市の詳しい説明が書いてある。

 江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。 奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登(つと)のなかで、市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。

 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場が設けられた。古くから渡があり、市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後に関所となった。

 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。

 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村一対で1つの関所として定められていた。 そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。 幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また、江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、2〜3艘の船を用意し、川端に番小屋を建て、20人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御関所附渡船之村方(おせきしょつきとせんのむらかた)」とも呼ばれた。

江戸名所図会


 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治2年(1869年)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治38年(1905年)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運航は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。

江戸川


鴨がたくさんいた。

2005年千 葉〜に戻る