芭蕉の句碑岐 阜


義ともの心耳似多里秋乃可世

関ヶ原町山中に「常盤御前の墓」がある。


常盤御前の墓


常盤御前の墓

 都一の美女と言われ、16歳で義朝の側室となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の3児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。

 伝説では、東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千草と後を追って来た常盤は、土賊に襲われて息を引き取ります。

 哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。

関ヶ原町

言うまでもなく、「東国に走った牛若」は義経のこと。

月見てや常盤の里へかへるらん

   義朝殿に似たる秋風

『守武千句』

「常盤御前の墓」に芭蕉の句碑があった。


義ともの心耳似多里秋乃可世

出典は『野ざらし紀行』

貞享元年(1684年)、「常盤の塚」で詠まれた句。

   義朝の心に似たり秋のかせ

只野間の内海の秋風に涙をそゝきたる句と見るへし。欧陽永叔秋聲賦曰「夫秋刑官也 於時為陰 又兵象也 於行為金 是謂天地之義気 常以肅殺


欧陽永叔は欧陽脩の字。

文久2年(1862年)8月、春香園建立。

芭蕉句碑と化月坊

 寛政6年(1794年)2月、垂井町岩手生まれの化月坊(本名国井義睦・通称喜忠太)は、旗本竹中氏の家臣であった。文武両道にすぐれ、晩年は俳諧の道に進出した。安政4年(1857年)獅子門(翁の高弟各務支考を祖とする一派=美濃国が支考の生国で、活動の中心地だったため美濃派ともいう)十五世を継承、時に64歳。化月坊は美濃派再興のため、芭蕉ゆかりの各地に、芭蕉の句碑を建てた。文久2年(1862年)、ここ山中集落常盤塚の傍らにも翁の句碑を建てたが、自作の句も碑裏に刻んでいる。

碑面(左側)
 「義ともの心耳 似多里秋乃 可世」
 者世越翁(はせをおう)

 「義ともの心に似たり秋の風」
 芭蕉翁

碑裏(左側)
 「希尓風の 音も春み介李 阿支乃松」
 春香園

 「げに風の音も澄みけり秋の松」
 春香園


 文久二壬戌年八月建之

隣碑(右側)
 「その幹尓牛も かくれて佐くら哉」
 七十六叟(おきな)化月坊

 「その幹に牛もかくれてさくらかな」
 化月坊


 明治二巳年五月建之 社中

 また、化月坊は春香園とも称し、慶応4年(1868年)には、この塚の前に俳人接待のための「秋風庵」を開いた。庵開きには10数人の俳人が参会し、盛大な句会が催されたという。化月坊は俳諧に多大の功績を残し、明治3年(1870年)冬、77歳で没した。その後、庵は日守一里塚東隣(現垂井町)に移築され、茶所として、旅人の休憩所・句会の場となって活用されることと7なった。(現存)

関ヶ原町

春香園の句碑


その幹に牛もかくれてさくらかな

 宝永5年(1708年)4月、明式法師は江戸に下る途上、「常盤御前の墓」を見ている。

山中といふ里に、常盤御前のむなしき跡とて、崩かゝる石塔は、美目よしともの妻の古塚と、ある人のよまるも哀れなりし。


 明和9年(1772年)、上矢敲氷は常盤塚のことを書いている。

一 不破ノ西ニ山中村と云アリ。爰ニ常盤御前の石碑アリ。


 享和2年(1802年)3月25日、太田南畝は「常盤御前の墓」を見ている。

松原をすぎて山中村にいたる。ある人家のうしろの方に、苔むしたる石の五輪の形とおぼしきが、三つばかりならびたてり。一つは常盤御前の墓なりと云。のこる二つは侍女にもやあるらん。おもての人家に炉を囲みて、老たるうばの茶をのみゐたるさま、何となくあはれなり。


 大正13年(1924年)11月7日、荻原井泉水は「常盤御前の墓」で芭蕉の句碑を見ている。

 さて、その常盤の墳は大きな樒(しきみ)の木の蔭に蔽われている小さな五輪塔で、左右に稍小さい脇の塔を添えて、三基並んでいる。その裾には又、ごちゃごちゃと石を捨てたような風に、一尺程の塔が二十ばかりもあるが、是は供養のためのものであろう。少し離れて、句碑が一つ――義朝の心に似たり秋の風 芭蕉翁」――陰に「文久二壬戌年八月建之」として春香園という人の讃句もある。

『随筆芭蕉』(不破の関附近)

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