芭蕉の句碑


風かほるはをりはゑりもつくろはす

安城市和泉町宮前に弥厚公園がある。


弥厚公園に都築弥厚の像がある。


贈従五位築弥厚翁像

 弥厚は、富農の家に生まれ、根崎陣屋の代官をつとめるなど、地方の名望家でした。当時の安城市域の多くは水に乏しく、水田開発が困難でした。そこで、弥厚は矢作川の上流から水を引く用水計画をたてましが、農民や領主らの反対にあい、計画を実現できぬまま亡くなりました。弥厚の計画は、明治13年(1880年)に明治用水の完成となって、ようやく実を結びました。

都築弥厚像の左手に芭蕉の句碑があった。


謁丈山像

風かほるはをりはゑりもつくろはす

出典は『芭蕉庵小文庫』(史邦編)。

『蕉翁句集』(土芳編)に「元禄四未とし」とある。

『芭蕉句選』(華雀編)は「はをりや襟も」とする。

文化7年(1804年)頃、和楽建立。

風化が進み、よく読めない。

句碑の右手後ろに「句碑の由来」碑があった。


この句碑は、京都詩仙堂で芭蕉が石山丈山の肖像を見て詠んだものに、丈山を敬慕する都築弥厚翁が感銘を受け、和泉の邸内に文化年代の初め(西暦1804年)頃に建てたものである。その後、本龍寺境内、明治第一尋常小学校の校庭と移され、大正8年、弥厚翁銅像建立を機にこの地に移された。およそ200年の時を経て風化が進み判読困難となったので、ここに弥厚翁の遺徳を偲び由来碑をたてる。尚「和楽」は弥厚翁の俳号である。

和泉町内会

丈山苑へ。

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