慶長5年(1600年)、大阪から来て塩焼を教えたという河本弥左衛門が出家し、宗玄和尚と名乗り創建した。 当寺は行徳の製塩に深い関係があったことから、塩場寺(しょばでら)と呼ばれている。 本堂前の松の樹下を塩塚といい、そこに行徳の俳人たちが松尾芭蕉の百回忌を記念し、句碑を建立した。 |
本寺は慶長5年(1600年)宗玄和尚の開基と伝える浄土真宗の寺院です。 宗玄和尚は俗名を河本弥左衛門といい、かつて、片桐且元の家臣として豊臣家に仕えていましたが、関ヶ原合戦ののち行徳に来住し、仏門に帰依してこの地に一寺を建立したのが、この法善寺の起りといいます。 弥左衛門は元和7年(1627年)大僧都に任じ、宗玄と称しましたが、寛永18年(1641年)2月、84歳で示寂しました。 かれは当時、この辺りが海岸に面しており、荒地が広がっていたところから、土地の開拓をはじめ、特に海岸には塩田をつくって製塩の方法を村人たちに教えたといいます。この法善寺が俗に「塩場寺」と呼ばれているのは、このことからです。 本堂前にある松尾芭蕉の |
と刻した句碑は「潮塚」とよばれていますが、この句は芭蕉が伊勢国(三重県)の二見ヶ浦で詠んだものを寛政9年(1797年)芭蕉百回忌(芭蕉百回忌は正確には寛政6年です。)を記念して、行徳の俳人戸田麦丈等によって建てられたものです。 法善寺の本堂は、かつて三重の茅葺屋根をもった壮大なものであったといわれますが、明治14年(1881年)4月、火災によって寺の記録や宝物など、すべてが焼失してしまいました。 昭和55年3月
市川市教育委員会 |