芭蕉の句碑
当帰より哀は塚のすみれ草
鶴岡市羽黒町手向の宿坊街に烏崎稲荷神社がある。
烏崎稲荷神社
烏崎稲荷神社の参道右手に図司呂丸追悼碑があった。
消安し都の土に春の雪
呂丸辞世の句である。
右に支考、洒堂、芭蕉の呂丸追悼句が書かれていた。
洒堂は近江膳所の医師。
寛政5年(1793年)2月、呂丸百回忌に建立。
図司呂丸追悼碑の上に詳しい説明が書いてあった。
図司呂丸追悼碑
辞世
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消安し都の土に春の雪
| 呂丸
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追悼
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死に来てそのき佐良支の花の陰
| 野盤子
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雁一羽いなてみや古の土の下
| 酒落堂
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当帰より哀は塚のすみれ草
| 芭蕉庵
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寛政五癸丑年二月
| 施主
| 三峰
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| 翠古
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| 執筆
| 竹甫
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呂丸近藤左吉略歴
近藤左吉、俳号呂丸。羽黒町手向荒町に住み、図司姓も称した。左吉、染屋を本業となし、俳諧に志す。俳聖芭蕉翁の奥の細道に「六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかに、あるじせらる。」云々とあるは、遠く元禄2年の昔である。
呂丸が芭蕉翁の俳論を書きとめた「聞書七日草」又呂丸傳書「うたまくら」は酒田市立光丘図書館に保存されている。呂丸は元禄5年芭蕉翁を慕い、俳諧修業の旅に出た。その時貰ったのが「三日月日記」である。ついで京洛に上り、元禄6年2月2日、病のため京都で客死された。芭蕉翁いたく呂丸の客死を惜みなげいて、その消息を長文の書簡に認め、鶴岡の俳人翁岸本八郎兵エ氏に送った。その書簡は、現在鶴岡市本町1丁目児玉光弘氏所蔵する。
この追悼碑は寛政5年呂丸没後約100年を経て、当時の羽黒俳人等故人を偲び、建立されたものである。
昭和44年5月
土岐多聞謹記
当帰はセリ科の多年草。漢方薬として用いられる。「当ニ帰ルベシ」の意を含めているようだ。
昭和40年(1965年)、山口誓子は手向で呂丸の追悼句碑に案内された。
手向を走っているとき、天野氏は羽黒館の近くで自動車を停め、その奥の烏崎稲荷に私を案内した。呂丸の追悼句碑がそこにあるからである。
本殿の横にあるその句碑は、表に呂丸の辞世。暮れちかいせいもあってすこし読みにくい。
消安し都の土ぞ春の雪
芭蕉は呂丸を訪ねて羽黒山に来たのだ。呂丸は大いに務め、芭蕉を本坊の客とした。
元禄六年、呂丸は京都で客死した。辞世の「都」は京都である。
碑の右に「追悼」として三句。
死に来てそのき佐ら支の花の陰
雁一羽いなでみやこの土の下
当帰より哀は塚のすみれ草
作者、右より支考、酒堂、芭蕉。
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