芭蕉の句碑


鎌倉をいきて出てけむはつ松魚

横浜市戸塚区の国道1号「戸塚町」交差点に富塚八幡宮がある。


冨塚八幡宮

 平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命(とつぎひこのみこと)の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝して、延久4年(1072年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。

 社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発生したと伝えられています。

石段を登ると社殿がある。


石段の左手に芭蕉の句碑があった。


鎌倉をいきて出てけむはつ松魚

出典は『葛の松原』

元禄5年(1692年)、芭蕉49歳の時の句。

『類柑子』俳諧一葉集』には「鎌倉は」とある。

初鰹は当時鎌倉に水揚げされ、戸塚宿を通って江戸に運ばれたそうだ。

嘉永2年(1849年)、戸塚の俳人達により句碑建立。

山口誓子は、この句碑について書いている。

 この句は私の好きな句だ。鎌倉で捕れたとき、そのはつ松魚はいきいきしていた。江戸へは早荷でとどけられたろう。若狭の鰈を京都へとどけるのに、若狭街道を走って搬んだように。

 しかしこの句は、江戸で作られた句にちがいない。初松魚を喜ぶ江戸の人々を代表して詠ったような句だ。「鎌倉をいきて出てけむ」は芭蕉の言葉であると同時に江戸の人々の言葉である。

 早荷は鎌倉から東海道筋に入って宿場宿場を走り過ぎたから、この句碑が戸塚に建っていても構わないようなものの、私には場違いと思われる。

 嘉永二年の建立。拓本でみるその書は美しいとは云い難い。


冨塚八幡宮


祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、富属彦命(とつぎひこのみこと)

誉田別命は応神天皇のこと。

本殿は天保12年(1849年)、拝殿は昭和9年(1934年)造営。

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