この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(1688年)秋冬の頃の作で仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」を発句とする表十句を刻んである。
背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に149句を刻み、起名庵金波の芭蕉景仰の漢文銘があり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛」とあり、上総千町村 (現茂原市千町)の俳人起名庵金波「河野五郎兵衛」一門によって建てらたもので、書も金波といわれている。
金波は文化元年(1804年)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永5年(1852年)千町村の河野家の養子として迎えられ、明治20年84歳で没した。
一宮町教育委員会 |
金波の句
引わけてとちらも笑ふすまひ哉
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神輿があった。

明治39年(1906年)8月17日、河東碧梧桐は大原から一宮に行く。
大原から汽車。一の宮に宿を求めて風呂から上ると、黄昏の空に稲妻が頻りにひらめいておる。(上総一の宮にて)
稲妻に旅情催うす句案かな
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