芭蕉の句碑


あかあかと日はつれなくも秋の風

大垣市船町の県道31号岐阜垂井線添いに正覚寺という寺がある。


 大垣市指定史蹟

芭蕉・木因遺跡

 俳聖松尾芭蕉の美濃来遊4回は、俳友谷木因が大垣にいたためである。

 木因は、名を正保、九太夫と称し、木因はその号である。船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入って俳諧を学んだ。芭蕉とは同門でであったので交わりが深く、貞享・元禄年間に大垣俳人の先駆をなし、大垣藩士近藤如行をはじめ多くの門弟を芭蕉門下に入れた。

 元禄7年(1694年)芭蕉が大坂で病没すると木因はこれを深く悼み、船町正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。

 木因の死後、芭蕉・木因の因縁をしのび、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。

大垣市教育委員会

冷水山正覚寺


曹洞宗の寺である。

正覚寺の句碑と塚


「芭蕉翁」


元祿8年(1695年)1月12日、芭蕉の百ヶ日追善忌に建立。

(よつて)地を州城の西、町の片端なる所の冷水山正覚寺禅慧、攸門戸物寂たる左の方に卜シテ、方墳を真似て石を削り、高さ纔に弐尺五寸、径(わたり)三尺、其上に野面なる石に芭蕉翁の三字をあらはし、椎の細き丸太六十株を用て、その樊(かこひ)となす。

「芭蕉翁」の文字は路通の筆と伝えられる。

「尾花塚」とも呼ばれ、日本最古の翁塚として知られているそうだ。

百ヶ日追善俳莚を挙行し、『後の旅集』を編集。

 名古屋市緑区鳴海町の誓願寺の供養塔は「芭蕉が没した翌月の忌日」に如意寺に建てられたものだそうだから、こちらが「芭蕉最古の供養塔」ということになる。

芭蕉の句碑


あかあかと日はつれなくも秋の風

『奥の細道』の旅で金沢から小松へ向かう途中に詠まれた句。

明治7年(1874年)1月12日、建立。

「梅花佛」


各務支考の供養塔である。

各務支考(1665-1731)は獅子門二世。

明治29年(1896年)2月、建立。

発句塚


住みあいた世とは嘘なり月よ花
   仙石庵廬元坊
名月やことしの影はことしとて
   田中五竹坊
しづけさや芭蕉にかかる雨の音
   岡田冬恕坊

仙石廬元坊(1688−1747)は獅子門三世。

田中五竹坊(1700−1780)は獅子門四世。

岡田冬恕坊は帰一庵。五竹坊門下。

寛政12年(1800年)2月、建立。

冬恕の碑


発句塚


乗りながら馬繋かれて春寒し
   軽花坊

菜の花の香やほろほろと暮の雨
   神野曙庵

軽花坊は久世友輔。五竹坊門下。

神野曙庵(1829−1906)は獅子門再和派十六世。

安政6年(1859年)、建立。

 2基の発句塚は複製で、原資料は「奥の細道むすびの地記念館」に展示保管されている。

少し離れて「木因碑」があった。


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