大垣市指定史蹟 |
俳聖松尾芭蕉の美濃来遊4回は、俳友谷木因が大垣にいたためである。 木因は、名を正保、九太夫と称し、木因はその号である。船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入って俳諧を学んだ。芭蕉とは同門でであったので交わりが深く、貞享・元禄年間に大垣俳人の先駆をなし、大垣藩士近藤如行をはじめ多くの門弟を芭蕉門下に入れた。 元禄7年(1694年)芭蕉が大坂で病没すると木因はこれを深く悼み、船町正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。 木因の死後、芭蕉・木因の因縁をしのび、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。
大垣市教育委員会 |
仍(よつて)地を州城の西、町の片端なる所の冷水山正覚寺禅慧、攸レ託門戸物寂たる左の方に卜シテ、方墳を真似て石を削り、高さ纔に弐尺五寸、径(わたり)三尺、其上に野面なる石に芭蕉翁の三字をあらはし、椎の細き丸太六十株を用て、その樊(かこひ)となす。 |
名古屋市緑区鳴海町の誓願寺の供養塔は「芭蕉が没した翌月の忌日」に如意寺に建てられたものだそうだから、こちらが「芭蕉最古の供養塔」ということになる。 |
住みあいた世とは嘘なり月よ花 | 仙石庵廬元坊 |
|||||||
名月やことしの影はことしとて | 田中五竹坊 |
|||||||
しづけさや芭蕉にかかる雨の音 | 岡田冬恕坊 |
乗りながら馬繋かれて春寒し | 軽花坊 |
||
菜の花の香やほろほろと暮の雨 | 神野曙庵 |
2基の発句塚は複製で、原資料は「奥の細道むすびの地記念館」に展示保管されている。 |
大垣 二句 樫の木の下木因の墓も盆 秋風の吹きはじめしも豆畑
『芹』 |