芭蕉の句碑


降すとも竹うゆる日はみのと笠

伊勢崎市境島村の民家に芭蕉の句碑があるというので、訪ねてみた。


伊勢崎市とはいっても利根川の南側で、すぐ南は本庄市である。

庭の奥に芭蕉の句碑があった。


降すとも竹うゆる日はみのと笠

出典は『笈日記』(大垣部)。「竹 木因」と前書きがある。

元禄年間の句。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未とし」とする。

 「是は五月の節をいへるにや、いと珍し。」とある。「五月の節」は、5月13日の竹酔日(ちくすいじつ)のこと。この日に竹を植えれば、よく繁茂するという。

      竹酔日

   ふらすとも竹植る日ハ簔と笠

五雑俎曰「栽竹無時。雨過便移。須宿土取南枝。此妙訣也」俗説五月十三日を竹酔日といふ。はいかいハ俗説を捨す。依て夏季とす。又居家必用「五月十八日栽竹及十三日為竹本命日之百無一死頻試實効」竹うへるに簔笠の掛合うこかすして尤風流なり


文政8年(1825年)10月、金井華竹庵萬戸建立。酒井抱一筆。

『はせをつか』(楓幻亜編)に収録されている。

 金井萬戸は栗庵似鳩について俳諧を学ぶ。酒井抱一、青木南湖などと親交があった。

天保3年(1832年)5月18日、63歳で没。

わかために来て恩を謝せ蜀魂

 萬戸の子烏洲は南画家で、境島村に群馬県指定史跡「金井烏洲と一族の墓」がある。

 群馬県指定史跡
金井烏洲と一族の墓

 金井烏洲は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。

 金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。また『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没した。

 弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。

伊勢崎市教育委員会

 天保2年(1831年)10月29日、渡辺崋山は金井烏州と伊丹新左衛門を訪ねる。

 高島といふところに伊丹新左衛門といふものあり。この家を訪ひて一夜をからんとて、島村の烏州先だちて導く。この処よりは十二三町も西のかたにて、鳥[羽]の夜をたどりその家にいたる。

渡辺崋山「毛武游記」

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