芭蕉の句碑


夏草や兵ともかゆめの跡

岡崎市鴨田町字向山に西光寺という寺がある。


長親山西光寺


浄土宗鎮西派の寺がある。

岡崎観光文化百選

井田野古戦場

 1467年8月23日、松平四代親忠と、寺辺、伊保、八草、挙母(ころも)、上野の土豪の軍が、この辺りで激しい戦いをしました。勝った親忠は、戦死者を敵味方の区別なく葬って塚を築きました。これが今も残る千人塚です。

 ここ西光寺には、家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際、追っ手の織田方と戦って倒れた多くの僧を葬った大衆塚もあります。

 井田野は、その後3度も激しい戦場となりました。

本堂の左手に芭蕉の句碑があった。


夏草や兵ともかゆめの跡

出典は『奥の細道』。

碑陰に由来が刻まれている。

ことし寛保三癸亥年冬十月十二日
芭蕉翁五十回忌尓相當せり於是
高風を追慕する本一基を魂魄野尓
建て以て其志を標す此地ハ古戦場也
故尓翁の道艸を彫刻すと云々

寛保3年(1743年)10月12日、芭蕉翁五十回忌に岡崎連中建立。

解説が書かれていた。

 この句は、俳聖松尾芭蕉が元禄2年曽良をともなって奥の細道を旅した時、平泉で夏草の茂る中に戦いに消えた兵士をしのんで作ったのである。こゝ井田野もまた戦国時代多くの兵士が戦った古戦場である。寛保3年(1743年)10月芭蕉翁亡くなって五十回忌に、菊里亭座明を中心とする当時の岡崎連中が、この地にふさわしい夏草の句碑を建立し高風をしたったのである。その時『ゆめのあと』という句集1巻を残している。

 この「夏草塚」は岡崎市内の芭蕉句碑8基中最古のものである。

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