しばらく看主セよと仰ごと蒙りし寺は名にあふ那珂川に餘る山院にて高水山といへり。水勢の転化にやいつの比よりか河水の溢れて麓の里を浸すこともありしが、近き比は年毎の洪水家を破りたなつものををし流して農の苦しむこと大かたならず。是に依て誰いふとなく高水の名を忌そめて常に此ことを歎く。余爰に移住するに贅ておほやけに此趣を訴へ奉りしにかしこくも法雲の二字に改め給りけれバ一村の喜び翌日にものなし。余も思ひこし本懐のたりて今よりしてはなを年毎に運ぶ御調の数増りなんことを恐れながら祝し奉りて 名の下に實ある代なり雲の秋
『遅月句集』 |
文久2年(1862年)、竜光院は落雷による火災で堂塔すべてを焼失してしまった。 |
昭和28年(1953年)秋、竜光院の火災で埋もれたままなっていた句碑を発掘し、90年ぶりに復元したもの。 寛延3年(1750年)5月、遲月は備中国小田郡笠岡に生まれる。俗名丸山幸之助守邑。 明和5年(1768年)、京都の安養寺で仏門に入り、芭蕉庵四世不二庵二柳に俳諧を学ぶ。 |