芭蕉の句碑


やすやすと出でていざよふ月の雲

宮城県宮城郡利府町中央3丁目に八幡神社がある。


八幡神社の鳥居


鳥居の左手に芭蕉の句碑があった。


やすやすと出でていざよふ月の雲

出典は『笈日記』(湖南部)。

 元禄4年(1691年)8月16日、前夜の義仲寺に於ける十五夜の月見に引き続き、堅田で十六夜の月を詠んだ句。

寛政5年(1793年)4月、芭蕉の百年忌に丈芝坊門人十符庵連中建立。

利府は、もと「十符の菅菰の里」で、みちのくの歌枕であった。

碑の裏に白居の句が刻まれている。

ながき代の蕣(あさがお)乃実のこぼ礼け里

 丈芝坊白居は仙台の俳人。加藤暁台に学ぶ。国分町の版木屋の主人で、本名は山田屋庄兵衛。

八幡神社社殿


利府町誌によれば、この宮についての記述は安永風土記等江戸時代の文献の古文書には記録されていないとされています。しかし、その由緒は民間の伝承で分かるとされています。

その由緒というのは、「ずいぶん大昔ののこと、陸奥国に大地震があって、大津波に流されて来た八幡村(現多賀城市)の八幡様の御神体をおまつりしているだ」というものです。

今の多賀城市の古老の人々は、この宮を「泥八幡」といい、利府では「流れ八幡」といっていました。

祭神は、普通の八幡宮と異なり、大鞆別命(おおともわけのみこと)とされています。祭日は、旧3月15日の春のまつりと8月25日の秋まつりであるとされています。

また、この伝承にはつづきがあり、加瀬の小林主膳の遠い先祖の方が大昔の大津波の時に加瀬一本杉のあたりで御神体を泥から取り上げ、「流れ八幡」としておまつりしていましたが、いつのころからか利府の人々による協同の祭典になったということです。

その伝承に出てくる八幡様が多賀城の八幡神社であるとすれば、大昔には沖の井八幡宮とよばれ、鎌倉時代の建保年間(1213〜18)に多賀城市八幡に移されたものです。

現在の宮の形は、江戸時代の文化11年に肝入・検断佐々木春泰によってつくられものです。いつのころからか「流れ八幡」の御神体はみあたらなくなってしまいました。

利府町教育委員会

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