芭蕉の句碑長 野


梅が香にのつと日の出る山路かな

中津川市落合の落合川に落合大橋が架かる。


落合大橋


歴史の道 中山道

中山道の付替と落合大橋

 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわれています。

 この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までの登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741年)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。

 しかしこの道も悪路で、今までより約1.8kmも遠回りになったことから、明和8年(1771年)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。

 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに登る道に付替られました。

中津川市教育委員会

享和2年(1802年)3月28日、太田南畝は落合橋を渡っている。

木曾川にわたせる橋を落合の橋といふ。橋杭なし。又釜が橋ともいふ。河原に石多し。


瑠璃山医王寺


本尊の薬師如来は行基の作と伝えられる。

 もと天台宗の名刹として栄えたが、戦国時代の戦乱にあい法燈は一時中絶。天文13年(1544年)に再興、浄土宗に転じたという。

本堂左手泉水の傍らに芭蕉の句碑があった。


梅が香にのつと日の出る山路かな

元禄7年(1694年)春、芭蕉51歳の句。

『炭俵』冒頭、志太野坡と両吟歌仙の発句である。

嘉永6年(1853年)、嵩佐坊建立。

嵩佐坊は泉屋六代目鈴木利三郎清茂。素涼。

天保3年(1832年)6月、友左坊は美濃の落合を訪れる。

天保6年(1835年)、素涼は嵩佐坊の号を許された。

その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合の宗匠、崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考の『三チョウ(※「兆」+「頁」)の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合つけあいがあった。

『夜明け前』

安政3年(1856年)10月4日、84歳で没。

 嘉永6年(1853年)5月16日、吉田松陰は江戸に行く途中、落合を経て馬籠に至る。

落合を經て馬籠に至る。此の間を美濃・信濃の界と爲す。


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