芭蕉の句碑


初雪や雪かかりたる橋の上

大崎市古川三日町を緒絶川が流れる。


三日町から七日町へ渡る「緒絶橋」がある。


「緒絶の橋」の七日町側に「緒絶橋舊跡」碑があった。


みちのくのをだえの橋やこれならむふみみふまずみ心まどはす

「緒絶橋舊跡」碑の脇に芭蕉の句碑があった。


初雪や雪かかりたる橋の上

大変詳しい説明があった。

緒絶橋

 古川市三日町の緒絶川に架けられたこの橋は、古来有名な歌枕「緒絶の橋」であると伝えられている。

 その昔、荒雄川(江合川)は、玉造川と呼ばれていたが、この河道は現在の市街地の北部から南へ流れ、鳴瀬川と合流していた。この玉造川の流路は、7世紀頃から東へ流れを変え、現在の地形が形成したと推定される。

 玉造川の流路を変えた後には、川筋が残り、玉の緒(いのち)の絶えた川、即ち緒絶川と呼ばれ、この川の上に架けられた橋が緒絶の橋と呼ばれ現在に至った。

 古川の地名は、この流れの絶えた川床の上に発達した名称によるものである。

 緒絶の橋は初期万葉の時代から、「白玉之緒絶者信(「しらたまのをだえのはし」・訓読は鎌倉時代初期成立の『万葉集佳詞』による)と詠まれ、『源氏物語』(藤袴の巻)では悲恋の心情を表現している。

 この伝統をうけて、中古三十六歌仙の一人、左京太夫藤原道雅は伊勢の斎宮当子内親王に直情的なすぐれた和歌、

     みちのくのをだえの橋やこれならむ

          ふみみふまずみ心まどはす     (『後拾遺集』)

をおくった。この恋愛は悲劇に終わったが、この歌が勅撰和歌集にえらばれたことによって、緒絶の橋は第一級の歌枕として定着するに至ったのである。この後、宮廷歌会では、建保3年(1216年)10月、順徳天皇の主宰した内裏名所百首では歌枕名所百選のひとつの歌題に選定され、その他多くの歌会・歌合で詠みつがれ、緒絶の橋は全国版歌枕として認識されたのである。

 元禄2年(1689年)5月10日(陰暦6月26日)、俳人松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅にあったが、松島を去って北へと向かった。

 十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘(しよぜう)の往かふ道そこともわかず、後に路ふみたがへて

と書きしるしている。芭蕉は歌枕緒絶の橋に心ひかれながらも道をふみたがえて、この地を訪れることができなかったのである。だが、『おくのほそ道』に書かれたことから、この歌枕は、芭蕉を思慕する人々にとっては、懐かしい響きをもつ土地となったのである。明和7年(1770年)、名古屋の俳人暮雨巷加藤暁台が、この橋畔で「短夜のをだえや通ふ夢なかば」を発句とする歌仙を興行したことは芭蕉追慕のみではなく、歌枕緒絶の橋への深い伝統的想念からのものであったと言えるであろう。

句碑の復元について

 平成8年、「市民ギャラリー緒絶の館」の開館を契機として、この地にあった断碑を復元したものである。

 断碑には「掛りたる橋の上 緒絶橋 麥雨社中」と刻まれていたが、上の句がいつ頃から欠けたのかは定かではない。

 上部の句については諸説があるが、『志田郡沿革史』(大正元年)は、「初雪や雪かかりける橋の上」と記している。

 断碑裏面には、「文化四卯十月十二日」(1807年)の銘が刻まれているが、この日は俳聖芭蕉の百十二回忌に当る。それゆえ、芭蕉が深川大橋に半ばかかりける頃に詠んだ「初雪やかけかかりたる橋の上」をもととして「初雪や雪掛りたる橋の上」と刻まれたと思われる。文化4年旧暦10月12日は雪であったかもしれない。

 句碑復元については、かつての古川の俳諧結社麥雨社の人々の芭蕉讃仰の念から発した桃青忌に当たっての建立であることを第一に考え、ここに句碑復元を行った。句碑建立に当たって、麥雨社中の江刺屋文十郎の子孫である江刺英一郎氏の協力をえた。

古川市教育委員会

「緒絶の橋」が「第一級の歌枕」とは知らなかった。

   名所百首歌たてまつりける時
藤原定家

ことの音も歎くははる契とてをだえの橋に中もたえにき

『新千載和歌集』

仙台市岩切の冠川(七北田川)に架かる橋が「緒絶橋」であるともいう。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は古川の宿で秋山寿庵を訪ねて1泊。

 古川と云宿に来て、秋山寿庵に所縁アリ、尋入て一宿。

   ○暑き日や神農慕ふ道の艸

 緒絶橋、此古川の町内ニアリ。此橋の名、爰かしこにありて、以上四つは覚えたり。何も故有事にや。


 元文3年(1738年)4月、田中千梅は平泉の帰途、緒絶橋を通る。

高野築館高清水と云里々を過古川に緒絶乃橋を渡る


 明和6年(1769年)4月、蝶羅は古川の「緒絶橋」を訪れている。

   古川といふ驛に緒だへの橋あり折ふしさミ
   だれにて戎歌

さミだれのふる川なればわらんぢの

 緒だへのはしハこれでござるか
   仝


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で「緒絶橋」を訪れている。

をだえの名、何の由縁とも所に云ひ伝へたる證もさだかならず。土を置てわづかに往来を渡す橋也。世々の歌人おもひをよする事少からず。

短夜のおだえや通ふ夢なかば暁台

 声も跡なう消る蚊ばしら麦雨


 安永5年(1776年)、不二庵風五は平泉に向かう途中、「緒絶橋」で句を詠んでいる。

   緒たへの橋 古川ニアリ

市馬に緒絶の橋や秋の塵

『水蛙集』(三編)

 平成18年(2006年)3月31日、古川市は町村合併によって大崎市になった。

芭蕉の句碑に戻る