芭蕉の句碑青 森


花さかり山は日ころの朝ほらけ

野辺地町寺ノ沢に愛宕公園がある。


 文化7年(1810年)8月20日、松窓乙二は盛岡を立ち、野辺地を経て、9月5日、大間浜に到着。

此處をもすぎて、野邊地及古がもとにたづね入りぬ。爰は入海の空をうけるうまやのはじめなり。横もまぢかきあたりにて、

   一日來て松みぬ磯や秋寒み


 嘉永5年(1852年)3月6日、吉田松陰は青森から野辺地を訪れている。

津輕の地は率(おおむ)ね膏腴(こうゆ)に地なれども、此の間は赤地多し。馬門に至りて關あり、盛岡の置く所なり、砲臺あり、一門を備ふ。野辺地に宿す、戸數三百。九艘泊・平館よりここに至る、二十里許り。


愛宕公園の北斜面に石川啄木の歌碑がある。

斜面の上に芭蕉の句碑があった。


花さかり山は日ころの朝ほらけ

出典は『芭蕉庵小文庫』

文政12年(1829年)10月12日、東奥野辺地社中建立。

町指定有形文化財である。

 芭蕉の句碑の土台石にあるくぼみは、弁慶の足跡(左足)だという伝説があるそうだが、よく分からない。

 松尾芭蕉句碑は俳聖芭蕉を慕う尊敬する野辺地の俳人たちによって、文政12年(1829年)に建てられたものである。

 「花ざかり山は日ごろの朝ぼらけ」の句は、芭蕉が貞享5年(1688年)に桜の名所吉野山で詠んだ句で、碑の表面の文字は京都の歌人加茂季鷹の書である。

 江戸時代に始まる野辺地の俳諧の伝統は、明治以降も引き継がれ、手捏社などの活動により当町では県下でも有数の俳句の盛んな地となった。この句碑は、このような当町の文芸の歴史を伝える貴重な文化財である。

『諸国翁墳記』に「翁 塚 奥州森岡北郡野邊地二」とある。

 明治33年(1900年)、野辺地に山口鶯子・野坂十二楼らの笹鳴会が誕生。

 明治36年(1903年)、野辺地で菅菰会、俳誌『菅菰』を創刊。

 明治40年(1907年)1月6日、河東碧梧桐は7時間で9里を歩いて野辺地に着いた。

 きょうは朝八時沢田を立って、午後四時野辺地に着いた。沢田野辺地間は九里ある。七の戸昼飯の休憩時間一時間を除くと、七時間で九里あるいた事になる。一里を平均四十六分四十秒であるいておる。朝沢田を出た時と七の戸に着く前と、昼七の戸を出た時と野辺地に着く前とは速力に相違があるから、遅い時一里に五十五分間位費したとすると、早い時は三十七八分で一里あるいたことになる。


大変な健脚である。

 明治40年(1907年)5月6日、河東碧梧桐は野辺地公園の桜を見損なった。

 野辺地公園の入口に数十本立並んだ桜のあることは兼て知っておった。ことし始めて花らしい花を見るのであると、頭の中には山よりも高い花の雲を画いて、もう自分はその雲の中にさまようておるような思いをして来て見ると、更に花らしいものが目に見えぬ。車から下りて、そこらに白いものが、点々と一面に落ちておるのに気がつく。花はもう散ったのかと仰いで見ると、数十本青々した葉桜になっておる。花の雲からすべり落ちたように落胆する。実は一昨日までは盛りであったけれども、ゆうべの吹き降りにこうなったのであるという。


 大正4年(1915年)11月、野坂十二楼は俳誌『手捏(てづくね)』を創刊、中市謙三も同人として参加。

中市絶壁の句碑もあったようだが、見なかった。

傘さげてみ堂をめぐる夕嵐

絶壁は中市謙三の俳号。

芭蕉の句碑青 森〜に戻る