芭蕉の句碑


春も漸けしきとゝのふ月とむめ

大分市八幡に柞原八幡宮がある。


柞原八幡宮の石段


石段を上ると右手に「ほるとのき」がある。


大分市の名木

 この木は、享禄から天文のころ、豊後国主大友宗麟が盛んに外船を引き、神宮寺浦(今の春日浦)において外国貿易を営んだ際、ポルトガル人が持って来て移植をしたものなので、その名をとって樹の名前にしたと言う。

石段の左手に芭蕉の句碑があった。


春も漸けしきとゝのふ月とむめ

出典は『薦獅子集』(巴水編)。

 元禄6年(1693年)1月20日、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡にある。

被陰に「明治廿一年戊子夏 清風舎乙人書」とある。

 カンタンの花月旅館(もと貸席花月楼)の中庭に、この芭蕉句碑が建っている。裏面には「明治二十一年戊子夏清風舎乙人書」とある。カンタン港完成を祝って三塚清三(俳号乙人)が建立したものである。

 カンタン港(大分港)が完成したのは明治十七年。「大分の町の振興は港の整備が根元だ」と大分町各界の有志が発起人となり、築港会所を設けて、さんざん苦労をしたあげく完成に導いたのだが、この築港会所の頭取となって、完成に最も精魂を傾けたのが三塚清三だった。

 清三は京町で代々呉服商を営んできた資産家で、大分の発展のため多くの貢献をしており、大分市発展史にはその名を落とせない人だ。

 しかしこの人は俳人乙人の名の方が通っている。

 花月の庭の芭蕉句碑は、築港完成の喜びのあまり建碑を思いたったもので、「春も漸(やや)けしきととのふ…」の句をかりて、港の形態の整備されてきた姿に感慨をこめたのだろう。建碑は埋め立て地の中央を選んだものらしいが、遊廓街の発展につれて、句碑の位置が貸席の中庭となってしまったのである。

『大分今昔』(渡辺克己)

花月旅館は花月アパートに姿を変え、芭蕉の句碑は水江太一邸に移された。

 昭和31年(1956年)11月、水江太一氏は株式会社水江商店初代の代表取締役社長に就任する。

 昭和59年(1984年)1月、代表取締役会長に就任。

 平成19年(2007年)春、芭蕉の句碑を柞原八幡宮に奉納。

「貸席花月楼」も「芭蕉の句碑」も、それぞれに歴史があるものだ。

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