「芭蕉句碑」


すし塀に明ほの高し桐の華

桐生市宮本町に美和神社がある。


美和神社


延喜式内上野十二社の一社。

祭神は大物主櫛甕玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと)

 天保2年(1831年)10月15日、渡辺崋山は美和神社へ。

 午飯行厨を携て桐生町より西なる山に登る。町をはなるれば三輪の神社あり。これは延喜式内の御神にて陽成天皇勅額勳十等といふ。


美和神社社殿の東側に金毘羅神社がある。


金毘羅神社社殿の前に芭蕉の句碑といわれるものがあった。


すし塀に明ほの高し桐の華

「すし塀」は筋塀。

出典は『諺解大全』だそうだが、未見。

天明2年(1782年)秋、今日庵連中建立。

『はせをつか』(楓幻亜編)に収録されている。

今日庵は森田元夢の庵号。

 群馬県では高崎市下佐野町の定家神社の芭蕉句碑に次いで古いものだそうだ。

 この句は芭蕉句として今伝わらない。然し桐生市美和神社に、かけたお供モチ型の碑がちゃんと建っていて、碑面に「筋之知字誤為之非」と高吟の書きそこないの訂正までしてある。天明二年今日庵連中とあるから江戸の元夢の後見に成るものだが、それにしても当初八坂神社境内に建碑の時には世間に唯一枚の祖翁真跡が存したのを神実として土中につっこんでしまったのだろうか、何にしても県下で一番疑問なのはこの句碑である。

『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)

明治41年(1908年)7月、八坂神社の美和神社合祀の際、句碑も移転された。

金毘羅神社の東側に西宮神社がある。


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