芭蕉の句碑埼 玉


寒菊や粉糠のかゝる臼の端

県道45号本庄妻沼線を行くと、深谷市江原に摩利支天堂がある。


摩利支天堂


摩利支天堂は荏原氏館跡。

荏原氏館跡と芭蕉句碑

 本館跡は現在の摩利支天堂の周辺3町(約327メートル)に及ぶ範囲に所在し、武蔵七党の一つ、猪俣党に属した荏原太郎が居住していたと伝えられている。現在では館の痕跡を見ることはできないが、利根川の堤防の一部は、かつて館の土塁であり、戦国時代末期、豊臣秀吉による小田原征伐の際に、忍城(現在の行田市立郷土博物館周辺)の水攻めのため、石田三成の指揮により、取水施設として改修されたものと伝えられている。館跡は市指定文化財となっている。

 境内に建つ句碑は、江戸末期から明治初期に活躍した江原出身の俳人、市川市月(玄香庵)が、明治17年(1884年)に、俳聖松尾芭蕉を偲び建立したものである。

寒菊や粉糠のかかる臼の端

の句が刻まれている。

深谷上杉顕彰会(第33号)

芭蕉句碑


寒菊や粉糠のかゝる臼の端

出典は『炭俵』

元禄6年(1693年)、芭蕉50歳の時の句。

芭蕉と野坡の両吟がある。

   ばせを庵にて

寒菊や小糠のかゝる臼の傍
   翁

 提て売行半(はし)タ大根
   野坡

明治17年(1884年)、玄香庵市川市月句碑建立。桜井梅室筆。

碑面左右に市川市月の句が刻まれている。

退く雲と花ともつるゝ夜明かな
とちらから今日は來るやら不如歸
天照らす夜は名月の秋津島
老と見て讓る人あり雪の道

市月は江原村の人。市川長三郎。京都の桜井梅室の門弟。

明治20年(1887年)6月24日、84歳で没。

吉祥院へ。

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