芭蕉の句碑群 馬


涼しさやすくに野松の枝の形

伊勢崎市馬見塚町の国道354号沿いに群馬銀行豊受支店がある。


国道354号は例幣使街道

群馬銀行豊受支店の向かいに「牛打の松」がある。


五代目になるそうだ。

「三橋牛打の松と芭蕉句碑」の碑があった。

 上野国那波郡馬見塚入口例幣使街道筋に三橋あり、此の里に用水三筋ならびて流れ、ここに石橋架かるが故に三橋という。

 建仁2年壬戌春3月(1202年)栄朝禅師という高僧、第八十三代土御門天皇の勅を賜り関東下向の時、この橋を渡った。その折、橋下にて麻疹に悩める旅人のため、小松をかざして祈祷護符を与え、かたわらの畑にその松を挿し、牛車にて立ち去った。旅人の病癒え、また不思議にも此の松自然に根付き、枝葉栄えたという。

 後世、この松の威容に感動せし当村の俳人劔二翁が俳聖芭蕉の句を石に刻し、更にこの松に向かいて庵を結ぶ。これ向松庵なり。

芭蕉の句碑


涼しさやすくに野松の枝の形

出典は『笈日記』(支考編)。

元禄7年(1694年)閏5月、伊賀上野の雪芝亭で巻かれた歌仙の発句。

 『芭蕉翁繪詞傳』に「伊賀の雪芝が許におはせし時、庭に松植ゑさせけるを」とある。

 広岡雪芝は伊賀上野の人。通称は七郎右衛門。酒造業を営む。屋号は山田屋。別号野松亭。

文政8年(1825年)、再建。

『はせをつか』(楓幻亜編)に収録されている。

「向松庵創立二百年記念碑」もあった。

 向松庵は牛打の松に向かいて建てる庵にして、当村の俳人劔二翁の発起により寛政初期に創建されたものなり。

 劔二翁は幼少より文学に秀で書をよくし、似鳩翁に師事したという。似鳩翁は大阪の人で、上蓮沼に住み栗庵と号した。伊勢崎藩の家老達に俳句を進講したり、江戸・京都・長野をはじめ、全国各地に俳歴を残した当代随一の宗匠といわれている。

 劔二翁は師に学び、師の執事を務め、師とともに全国各地に蕉風を広め、多くの句集や書を残している。向松庵を訪れる文人墨客とも親交を重ね、門弟を育て例幣使街道随一の興隆を誇る業績を残された。二世茂逸、三世三橋をはじめ、多くの後継者を得、この間幾多の戦乱や困難な時代を乗り越えて来た。現在、初代創建の庵は屋敷跡を残すのみだが、200年の歳月を経た今日まで連綿と継承され、八世に至っている。

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