芭蕉の句碑東 京


ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし

 JR武蔵野線西国分寺駅から府中街道を行くと、国分寺市西恋ヶ窪に熊野神社がある。




同じ所、坂より下の低き地をいふ。古へ東奥・北越等の国々より京師及び鎌倉等へ至るの駅路にて、その頃は遊女の家居などありていとにぎはしかりしとなり。(この地に牛頭天王の叢祠あり。竹林の中に凹(くぼか)なる地あるを、古への北国街道の旧址なりといへり。)

『回国雑記』 恋が窪といへる所にて

   朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪今はたとふもちぎりならずや


熊野神社


主祭神は伊弉諾大神・伊弉冊大神。

元弘建武の頃(1331年)、新田義貞鎌倉勢と戦の時、兵火に消失したという。応永年間(1394年)社殿再建。文明18年(1486年)5月聖護院道興准后御東行の砌、「朽ちはてぬ名のみ残れる恋ヶ窪今はた訪ふも知記りならずや」の御歌奉額あり。天正18年(1590年)社殿奉額共に兵火に消失したという。

熊野神社に芭蕉の句碑があった。


ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし

出典は『更科紀行』

貞亨5年(1684年)8月、芭蕉45歳の時である。

   ひよろひよろと猶露けしや女郎花

續古今集「何ことをしのふの岡のをミなへし思ひしほれて露けかるらむ」


   ひよろひよろとなほ露けしや女郎花

一書に、続古今集に

   なにごとをしのぶが岡のをみなへし

      おもひしほれて露けかるらむ


『笈日記』(支考編)に「ひよろひよろとこけて露けし女郎花」とある。

○ひよろひよろとなほ露けしや女郎花

此句みのゝくにより更科の月に旅立侍る時也。笈日記にハこけて露けしと有。違也。


ひよろひよろと猶露けしや女郎花
   はせを

こんにやくかひに行朝の月


明治7年(1874年)8月、寶雪庵可尊建立。

明治12年(1879年)、『故郷碑』(宝雪庵可尊輯)。

可尊の句碑もあった。


月花の遊びのゆかむいざさらば

 寶雪庵可尊(坂本八郎兵衛)は、明治19年(1886年)に88歳で亡くなったが、その辞世の句を門人たちが明治30年(1897年)に建てたもの。

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