芭蕉の句碑山 梨


行く駒の麦に慰むやどりかな

 芭蕉翁寓居桃林軒から都留文化会館を経て国道139号を越えると、甲府地方裁判所都留支部がある。


甲府地方裁判所都留支部に谷村陣屋跡の碑があった。


 宝永元年(1704年)12月、秋元喬朝は武州川越へ転封、宝永2年(1705年)、都留郡は御料所となり、谷村に代官所が置かれた。

谷村第一小学校には谷村城跡の碑があった。


秋元喬知が武州川越へ転封すると、谷村城は破却されたようだ。

城南公園に「ふれあい俳句大会開催記念句碑」があった。



行く駒の麦に慰むやどりかな

出典は『野ざらし紀行』

「甲斐の国山中に立寄て」と前書きがある。

貞享2年(1685年)の句。

 松尾芭蕉は貞享2年(1685年)の『野ざらし紀行』と呼ばれる旅の帰途に甲州へ入り、都留の里へ立ち寄った。

 これは江戸の大火で焼け出された芭蕉が天和3年(1683年)に甲州へ来て半年ほど世話になった谷村藩家老高山伝右衛門繁文(俳号麋塒)にその時の礼を述べるための来峡と言われており、この俳句はその折に作られたものである。

 俳句は、「幾日も旅をつづけて来て、今晩あなたの家に厄介になることになりましたが、いろいろと手あつくもてなしを受け、感激しております。そして馬もおいしい穂麦などを食べさせて頂いて道中の疲れもとれ、大変喜んでいるように見えます。」というような意味で、切れ字の「かな」の使用によって芭蕉の感謝の気持ちが強く表されている。

 この俳句の作られた場所については、前書きに「甲斐の国山中に立寄て」とあることから、「単に甲州の山の中」という意見や、「籠坂を越えて入って来た山中村ではないか」という意見などが聞かれるが、また視点をかえてみると、馬に大事な穂麦を食べさせたり、しかも、芭蕉が丁寧な口調で挨拶句を呈したりしている宿泊先の主人というのは、相当に裕福で地位も高く、しかも俳句に造詣の深い人物であったという想像が成り立つことから、そこに2年振りの再会にあれやこれやと気を遣って師を歓待している麋塒の姿が眼に浮かんでくるのである。

 また、前書きにある「山中」というのも、自らの心を馬に託して句を詠むような逆説的な見方からすれば、山峡(やまかい)にある谷村の城下町を「甲斐の国山中」と言わしめたのも、また風雅のひとつとも受け取れるのである。

 都留市と深いかかわりのある句というべきである。

   平成6年3月
都   留   市
都留市教育委員会
都留市文化協会

つるの子公園天神へ。

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