芭蕉の句碑


枯枝にからすのとまりけり秋の暮

 海鹿島から県道37号銚子停車場線を行き、左折してJR総武本線銚子駅を越えて浄国寺へ。


浄国寺


浄土宗の寺である。

写真ではきれいでないが、梅がきれいに咲いていた。

 享保元年(1718年)8月16日、千梅林亜請は鹿島に向かう途次浄国寺に参詣している。

日いとよく晴わたれるに川岸にさし寄て浄国寺に詣す崙山和尚の中興甍漁家の扉を輝す


 文化14年(1817年)6月1日、小林一茶は桂丸、李峰と共に浄国寺を訪れた。

一 晴
 南風 辺田浄国寺登望西台


 桂丸 李峰同

『七番日記』(文化14年6月)

 『七番日記』(文化13年12月)の下段には「成美始書句帖有 住持ニ相見」と書き込みがある。

文化十三年丙子歳恆斎桂丸納之」と箱書があるそうだ。

一茶は浄国寺の『芳墨帖』に句を揮毫している。

 この台の清風ただちに心涼しく西方仏土もかくやあらんと

ほととぎす爰(ここ)を去ること遠からず

浄国寺所蔵『芳墨帖』

浄国寺墓地の奥に一茶の句碑がある。

浄国寺に松尾芭蕉の句碑があった。


枯枝にからすのとまりけり秋の暮

出典は『阿羅野』(巻之四)。

延宝8年(1680年)、芭蕉37歳の時の句。

句碑の説明が書いてある。

松尾芭蕉句碑

枯枝にからすのとまりけり秋の暮   はせお

 広大な浄国寺境内の夕暮れには、いまでもこうした情景に出会いそうです。芭蕉がこの寺を訪ねた記録はありませんが、檀家の行方(なめがた)屋庄次郎(俳号桂丸)が、句碑の片隅に「あきの夕誰が身のうへぞ鐘が鳴る」の句を添えてあります。地元の豪商大里庄次郎と野崎小平次が、俳聖芭蕉を追慕して弘化2年に建てました。

「はせお」は「はせを」でなければいけない。

 桂丸は銚子小浜の素封家宮内太郎左衛門の実子で、行方屋に養子に入り6代目を襲名し、俳諧師恒丸葛斉から一字を貰いうけて、恒斉と号した。

弘化2年(1845年)7月25日、桂丸は63歳で没す。

 芭蕉の句碑が建てられたのは、一茶が浄国寺を訪れてから28年後のことである。

 安政5年(1858年)4月1日、赤松宗旦は野崎小平次に会っているようである。

  観音の脇
      野崎小平次
  同うしろ
      田中玄蕃

赤松宗旦『銚子日記』

「田中玄蕃」はヒゲタ醤油の創始者田中玄蕃の10代目らしい。

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