仲哀天皇の皇居は豊浦といふ浦成べし。当社は稚桜宮天皇におはします。神主則対面して神宮の物語す。齡はや六十に及ぶやと見えて、何となく神徳の深さも顕はるゝ心地して、殊勝にぞ覚え侍る。社参は幸明日九日の節なれば、此日は打休みぬ。夕月夜の影お(を)かしき程に、海の上も凪ぎ渡りて心澄めり。取敢へず、 月にみつ夕しほさむし秋の海
『筑紫道記』 |
古事記・日本書紀によれば、第十四代仲哀天皇は九州熊襲征討のためご西下になられ、ここに仮の皇居「豊浦宮(とよらのみや)」を興して七年間ご滞在になられて神功皇后と共にそのご準備を進められた。 古くよりこの地は、九州にほど近い要衝の地であったことが窺える。 |
昭和3年(1928年)10月12日、高浜虚子は忌宮神社に参拝している。 |
乃木大將舊邸を見る 聞きしよりもあまり小さき柿の家 十月十二日。轉じて和布刈神社、壇の浦、滿珠、干珠等等を遠 望し長府に上る。忌の宮參拜、乃木舊邸を見る。 |
昭和8年(1933年)6月5日、種田山頭火は長府の町を散策。忌宮神社を訪れている。 |
覚苑寺、功山寺、忌宮、等々のあたりをそゞろあるきする、青葉若葉、水色水声、あざやかでなつかしい。
『行乞記 北九州行乞』 |
昭和11年(1936年)2月21日、高浜虚子は門司着。下関に渡り長府へ行く。酒井黙禅同行。 |
午後二時私達は船を辭し下ノ關へ渡つた。其處には丁度方舟氏が何時の間にか先生一行と共に一臺の遊覧バスに乘込んで居るのであつた。招かれるまゝに吾等も之に便乘して沿道の風光をめでつゝ長府行の人なつた。
酒井黙禅「箱根丸門司出帆前日小記」 |