芭蕉の句碑


はつさくらおりしもけふはよき日なり

上里町忍保に池上神社がある。


池上神社

 池上神社は、和銅年間(708〜715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の1つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実(いまきあおさかいなみ)池上神社と記されている。

 忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。

 正慶年中(1332−1334)には新田義貞、大永年中(1521−1528)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたと言われている。

 また、天正10年(1582年)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社殿を焼失し、その後、川窪信俊により再建されたと伝えられ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。

 なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。

   昭和61年3月

埼 玉 県
上 里 町

神楽殿


神楽殿の右に芭蕉の句碑があった。


正風流花塚

はつさくらおりしもけふはよき日なり

出典は『蕉翁全伝』(土芳)。

 貞亨5年(1688年)春、『笈の小文』の旅の途中、伊賀上野の薬師寺月次初会で詠まれた句。

 安政3年(1856年)2月、法松斎東一僖建立。翠松斎東一陽書。

 法松斎東一僖は忍保の竹内半蔵。文化10年(1813年)1月12日生まれ。挿花、茶道等を江戸の翠松斎東一陽に師事し、天保14年(1844年)に法松斎東一僖という斎号を授けられた。明治15年(1882年)7月12日、69歳で没。

 『諸国翁墳記』に「正風流花塚 翠松斎法橋一陽社中 武州加美郡忍保村 法松斎一□稲荷社地建之」とある。

社殿


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