芭蕉の句碑


春もやゝ氣色とゝのふ月と梅

燕市吉田上町に本久寺という寺がある。


本久寺


法華宗陣門流の寺である。

本堂の左手に芭蕉の句碑があった。


春もやゝ氣色とゝのふ月と梅

出典は『薦獅子集』(巴水編)。

 元禄6年(1693年)1月20日、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡にある。

芭蕉は江戸時代の正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、本名松尾宗房、13の時俳諧を好む城代藤堂家の嗣子藤堂主計良忠の小姓となり、その師北山季吟に俳諧を学ぶ。生来積極的な意欲の持主であり、その行動は数多くの句集に見られるごとく、古人の詩心と伝統を摂取する一方、絶えず新鮮さを求め、庶民的な表現のなかにもはげしい主観の燃焼があり、誹諧は芭蕉によってはじめて真の芸術とし大成された。

他面深く旅を愛し、多くの紀行文を残している。この句碑は元禄2年(1689年)3月江戸を発って東北地方を一巡、越後、加賀、更に京阪地方にまで遊び、同4年10月までの3年にわたるいわゆる「奥の細道」の大旅行の際、当地の同好の人達が芭蕉の詩心にふれ、永く後世に止めるべく建立したものである。

「奥の細道」の旅は大垣で終わる。

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