芭蕉の句碑新 潟


さびしさや花のあたりのあすならふ

上越市黒井の県道468号大潟上越線沿いに本敬寺という寺がある。


山崎山本敬寺


真宗大谷派の寺である。

黒井宿

 黒井宿の始まりは、今から400年前の天正年間頃とされ越後府中(直江津)と奥州(東北地方)とをつなぐ1番目の宿場として栄えました。

 高田に城が築かれた江戸時代には、街道も高田城下を通るように変えられましたが、それでも黒井は春日新田の次の宿場として、多くの人達に利用されていました。宿場には、大名や重臣の泊る本陣、脇本陣や旅人が泊る旅籠、木賃宿などがありました。これらは、町並みの中で幕府の決めた一定の場所に造られ、街道の道幅より広く道が造られていました。また、道には井戸があって主に馬に水を飲ませるために、使われていたそうです。

 明治以降になると、交通機関が発達し、次第に黒井宿もその使命を果たすことがなくなりました。他の町より広い道幅が黒井宿のただ一つの名残といえます。

上越市

山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。


さびしさや花のあたりのあすならふ

出典は『笈日記』

 讃

   あすは檜の木とかや、谷の老木の言へる事あ
   り。きのふは夢と過て、あすは未だ来らず。
   たゞ生前一樽の楽しみの外に、あすはあすは
   といひくらして、終に賢者のそしりをうけぬ

さびしさや華のあたりのあすならふ(ろ)
  ばせを(う)

 元句は貞享5年(1688年)『笈の小文』の「日は花に暮てさびしやあすならふ」。

 『枕草子』(第40段)「花の木ならぬは」に「御岳にまうでて帰りたる人などのもて来める、枝ざしなどは、いと手ふれにくげにあらくましけれど、なにの心ありて、あすはひの木とつけけむ。あぢきなきかねごとなりや。」とある。

松尾芭蕉「奥の細道紀行300年」記念事業 上越市

芭蕉句碑

さびしさや花のあたりのあすならふ

 「あすならふ」は翌檜(あすなろ)で、ひのき科の常緑高木、葉が檜に似ているところから「明日は檜になる」と言う意味でこの名が付けられており、「花が咲き盛っているあたりに、あすは檜になろうと思いつつ立って、年を経て行く翌檜の姿がさびしい」と言う句意と思われる。

 この句は笈日記に掲載されており、特に黒井には関係がないが、奥の細道行脚の際、松尾芭蕉が黒井宿の旅籠屋、伝兵衛で休んだのに因み、寛政の頃、地元の俳人、熊倉平十郎幸亭らによって建てられた句碑と言われている。

 芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を続け、奥の細道はじめ多くの紀行を残し、元禄7年(1694年)51歳で他界した。

 『曽良随行日記』には「○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ浜ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ弥三状届。」とある。

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