芭蕉の句碑


草いろいろ各花の手がら哉

白子町関に玄徳寺という寺がある。


玄徳寺山門


山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。


草いろいろ各花の手がら哉

出典は『笈日記』(支考編)。

 貞亨5年(1688年)8月、『更科紀行』出発に際して美濃の門人達に残した留別吟4句のひとつ。

白子町指定文化財

史跡 俳聖二百年忌記念碑

 江戸時代後半から明治にかけて、白子町一円は俳諧が盛んで、特に関の玄徳寺は句会の会場として振った。

 明治27年夏、関の大多和雄太郎ら三人が発起人となり、現本納、白子、長生の各村々から俳人が集り、芭蕉翁の二百年忌祭を行い、兼ねて新人の立机披露を行なった。この集会を記念して、扁平の自然石に、書家岩佐為春の雄筆で石に刻した。

草いろいろ各花の手がら哉   芭蕉

 建碑除幕式は、同年9月9日から東京松風会長等、俳諧の宗匠が臨席して挙行された。

白子町教育委員会

玄徳寺の墓地に大多和家の墓がある。

玄徳寺本堂


法華宗本門流の寺である。

玄徳寺の墓地に前田普羅の墓碑があった。


白子町指定文化財

史跡 前田普羅の墓碑及び句碑

 白子町の生んだ最高の宗匠である。関市場前田丑松の長男で、明治18年生れ、早稲田大学中退後、横浜裁判所勤務の頃から句作に志し、ホトトギス俳誌に投句して、高浜虚子に認められて、その門下に入り、後同誌の課題句選者となった。大正13年報知新聞記者時代、冨山で俳誌『辛夷』を創刊して、会員の指導に全国的に活躍した。彼は高浜虚子門下四天王の一人といわれている。この墓塔の側面に同門の飯田蛇笏の銘文がある。普羅は白水吟社や梛(なぎ)の葉会にも影響を与えた。昭和29年8月8日、没。

向日葵の月にあそぶや漁師たち
   普羅

花さそう風吹き月は十四日
   同人

 尚、句碑は国民宿舎(白子荘)の前に建てられている。

白子町教育委員会

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