上井出沿いの街並から西に夕陽を拝むあたりに、円通庵はあります。室町時代文明年間(1480年頃)、「一宗院」と名乗る一人の山伏がやってきてここに草庵を営んだのが、起源と謂われています。以来荒れ果てた時期もあったそうですが、江戸中期享保7年(1723年)に熊本から浄智和尚が来住し、観世音菩薩を本尊に曹洞宗の寺院として再興したそうです。現存の本尊の製作年代は現在不明ですが、背面に焼跡を背負い、識者によれば明治34年(1901年)3月の室の大火で全焼した際の名残とされ、往時の記憶を今に留める木像物です。 |
薤(蒜)のまがきに鳶をながめて |
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鳶のゐる花の賎やとよあかさむ(よみにけり) |
一日芭蕉翁より文通あり。其書面 当地或人附句あり。此句江戸中聞人無二御座一、予に聽評望来候へ共、予も此附味難レ弁候。依レ之為二御内儀一申進候。御聞定之旨趣ひそかに御知せ可レ被レ下候。東武へひろめて愚之手柄に仕度候。 附句 蒜の籬に鳶をながめて 鳶のゐる花の賎屋とよみにけり |
『諸国翁墳記』に「附句塚 肥后大津驛圓通庵寺建 韮のまかきに鳶を詠めて 鳶の居る花の賎家とよめりけり 輕舟・香芝」とある。 |