芭蕉の句碑
松風の落葉か水の音涼し
山形市薬師町に出羽国分寺薬師堂がある。
出羽国分寺薬師堂
天平年間、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山。
貞観年間、慈覚大師が中興。天台宗となる。
康平6年(1063年)、源頼義が再興。その後藤原秀郷が再興。
明治44年(1911年)5月8日、薬師堂焼失。
参道の右手に「芭蕉碑」があった。
山形市鮨洗の一亀坊氏が霞城・碩秋と共に建立。花本十一世聽秋書。
「明治3年(1870年)4月、建立」とするのは、誤りであろう。
芭蕉碑の奥に芭蕉の句碑があった。
松風の落葉か水の音涼し
出典は『蕉翁句集』。
貞享〜元禄年間の句。
『蕉翁句集』は「貞享元子ノとし」とする。
句碑の右に真蹟の由来が書いてある。
松風の眞蹟ハ祖翁行脚の折から武州川越秋元家の臣高山某方にて客中の吟なりしを泰安寺か乞に任せて染筆し給ふ所なりしとそを此地に移りても持て来りて久しく傳へしに去ぬる年上州へ移轉の砌一卜町吉右ヱ門へ讓られしなれこたひはせを翁の葉風廣く後世にも薫らん事を願ひ且謝恩のはしともなりなんとおもふか餘り奴某ら所望せしに主のゆるしけれハ則柏山精舎の松下に移す事にはなりぬ
明治三年庚午四月 南山居送壽俳弟敬述
山樫や下葉のまゝの夏みとり 送壽
「秋元家の臣高山某」は高山麋塒。
天和2年(1682年)12月28日、江戸大火により深川芭蕉庵を焼失。翌年、高山麋塒は芭蕉を谷村の自宅に引き取り、5ヶ月間世話をした。
明和4年(1767年)、秋元凉朝(すけとも)は武蔵国川越藩主から出羽国山形藩に転封。高山家も秋元家に従って山形へ。
弘化2年(1845年)11月晦日、秋元志朝(ゆきとも)は上野国館林藩に移封。その際「一卜町吉右ヱ門へ讓られしなれ」ということである。
明治3年(1870年)4月、南山居送壽が「柏山精舎の松下に移す。」
明治44年(1911年)5月8日の大火の後、現在地に移された。その時「芭蕉碑」が建てられたのであろう。
薬師堂の西に柏山寺がある。
護国山柏山寺
薬師堂の別当寺である。
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