芭蕉の句碑


鐘撞ぬ里は何をか春の暮

吉岡町大久保の旧佐渡街道を行き、午王頭川の橋を渡る。


旧佐渡街道大久保宿

 利根川沿いに北上する佐渡街道は、総社宿を過ぎて午王頭川の橋を渡ると此処から大久保宿となる。

 宿場は土蔵と蚕屋造りの家並みが軒を連ね、駒寄川まで約2キロのこの宿場を「大久保の長宿」とも言い、中程にある大泉寺を境にして北を寺上、南を寺下と呼ぶ。

 江戸初期は大名の通行もあったが、高崎回りの三国街道が整備されて、諸大名はこの道に移った。しかし、佐渡金山奉行は後世までこの道を利用したので佐渡街道と呼んだ。通行する際は上・中・下の3問屋が近隣の助郷のもとにその役割を果してきた。

吉岡町教育委員会

大泉寺がある。


光明山大泉寺


天台宗の寺である。

大泉寺に芭蕉の句碑があった。


鐘撞ぬ里は何をか春の暮

出典は『俳諧書留』

 元禄2年(1689年)3月29日(新暦5月18日)、『奥の細道』の旅の途上室の八嶋で詠まれた句。

 多年存在を知る者もなかったところ、戦後突如として地中から出現したもので、紀年も関係者名も刻んでない。この地は昔の佐渡奉行道の宿場でもあり、天明、寛政のころ村の名主中島宇右衛門が中心で相当の俳人グループを擁立していたから、多分彼等の物ずきであろう。

『上毛芭蕉塚』(本多夏彦著)

駒寄川に向かう。

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