芭蕉の句碑
うきわれをさひしからせよ秋の寺
桑名市長島町西外面に大智院という寺がある。
大智院山門
山門の手前に曽良の句碑があった。
伊勢の国長嶋といふ云所にゆかりあれハ
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先立ちて行くに
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ゆきゆきてたふれ伏とも萩の原
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平成6年(1994年)5月22日、河合曽良285回忌に大智院芭蕉曽良の会建立。
芭蕉遺跡大智院 桑名市教育委員会
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」との書きだしで知られる芭蕉翁の紀行文『奥の細道』の一節に、
「曽良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに
行き行きて倒れ伏すとも萩の原 曽良
と、書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者の憾み、隻鳧(せきふ)の別れて、雲に迷うがごとし。予も又、
今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉」
と、したためられています。
其の、長島のゆかりとは、当院長松山大智院であり、第四世住職法印良成(曽良の叔父)のことです。
この事項については、曽良の『奥の細道随行日記』に、くわしく誌されています。
その日記によれば、元禄2年8月5日に山中温泉泉屋で芭蕉と別れ、15日に当院に着き休養を取り、9月2日に芭蕉を出迎えに大垣へ出掛け、6日に翁とともに大智院に来り逗留、9日に伊勢神宮ご遷宮参拝のため出立されています。
その折、書きのこされた芭蕉の挨拶句が、当院にあります。
「伊勢の国長島大智院に信宿す。
うきわれをさびしがらせよ秋の寺」
この句は、のち元禄4年『嵯峨日記』に、
「うきわれをさびしがらせよかんこどりとは、ある寺に独居て云ひし句なり」
と推敲のうえ、「秋の寺」を「かんこどり」と改めて書かれています。
当院門前にある「蕉翁信宿処」の石碑は、藩主増山正賢(雪斎)公自筆の書で、蕉翁来訪100年を記念して建立されたもので、雪斎公以下家臣たちが作詠した詩文がのこされています。
大智院は、藩主松平定政公により、藩主の祈願所として建立された寺であり、明治5年長島学校が開校された、長島小学校発祥の寺です。
「蕉翁信宿處」の石碑
元祿二年秋蕉翁信宿于此而有佳句膾
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炙於人口載在于家集現住覺宥懼名跡
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之浬歿遂合衆力而建碑且奉乞吾
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公之題字以光榮遺蹤焉
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寛政改元春文學十時賜謹誌
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元祿二年秋蕉翁此に信宿して佳句有り人口に膾炙す。載せて家集に在り。現住覺宥名跡の浬歿を懼れ、遂に衆と力を合せ碑を建て、且つ吾公之題字を乞ひ奉り、以て遺蹤の光榮とす。
山門を入ると、左手に芭蕉の句碑があった。
伊勢の國長嶋
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大智院に信宿す
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うきわれをさひしからせよ秋の寺
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西行の「とふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくば住み憂からまし」をふまえたもの。
元禄2年(1689)9月、奥の細道の旅を終えた蕉翁は大智院に信宿して此句を書き殘した。翌3年の夏幻住庵に於て秋の寺を閑古鳥と更めた。
1971年初夏、建之。
信宿は同じ場所に二晩宿泊すること。実際は3泊している。
碑の裏に小さな芭蕉像があった。
大智院本堂
真言宗智山派の寺である。
伝真蹟色紙が所蔵されている。
昭和2年(1927年)11月27日、荻原井泉水は大智院で「芭蕉の真蹟」を見ている。
さて、住職は伝来する芭蕉の真蹟というものを取出された。門前の碑銘にある「蕉翁此ニ信宿シテ佳句有リ人口ニ膾炙ス」とあるそれである。
伊勢國長島
大智院に信宿ス ばせを
うき我をさびしがらせよ秋の寺
拝見すると、まず筆蹟に就いて疑の湧くのを禁じえない、又、その句が普通に伝えるところとは違っている。
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