芭蕉の句碑


初しくれ猿も小蓑をほしけなり

八戸市長者に長者山がある。


長者山

「伝説」源義経北方コース

 悲劇の名将と世に謡われた源九郎判官義経は兄頼朝に追われ文治5年(1189年)4月、平泉の高舘において31才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は、“義経は、その1年前に密かに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を創りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。

 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し木を植え、みだりに人が入らないようにした地と伝えられており、昔は長治山と呼んでいたと言われている。それが今では長者山と呼んでいる。

財団法人八戸観光コンベンション協会

長者山に芭蕉の句碑があった。


初しくれ猿も小蓑をほしけなり

『猿蓑』冒頭の句。

元禄2年(1689年)9月下旬、芭蕉46歳の作。

『卯辰集』には「伊賀へ歸る山中にて」と前書きがある。

寛政5年(1793年)10月12日、芭蕉の百回忌に建立。春宵軒東州書。

東州は八戸藩士栃内金左衛門。

記念の句集があったようだが、今は不明。

『諸国翁墳記』に「小簔塚 南部八ノ戸長者山建 連中」とある。

長者山新羅神社


主祭神は素戔嗚尊・新羅三郎源義光命。

延宝6年(1678年)、二代藩主直政が新羅三郎義光命を勧請して創建。

義光は義家の弟で、南部氏の遠祖である。

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