芭蕉の句碑


春立てまた九日の野山かな

成田市四谷の県道161号成田滑河線(水掛街道)沿いに児明神がある。


児明神


文明18年(1486年)、道興准后は「児の原」を訪れている。

 下つ総の国児の原といへる所あり。いかなるゆゑに、かゝる名の所は侍るぞと、さと人に尋ねければ、此の在所、白波青林横行の地たるによりて、ある少人のとほりけるに、衣装など剥ぎ取るのみならず、剰へ殺害し侍りき。夫より此の所をかやうに号し侍るよし語り侍れば、今更の心ちして、塚のほとりに立ちよりて、思ひつゞけて廻向し侍りける。

   佳人落命荒原上   蘇底古碑空刻名

   勿恨青林犯花影   浮生有限辱兼栄

   白波に浮名をなかす児の原恋ちにすつる身とも聞かはや


児明神に道興准后の歌碑があった。


しら波にうき名をなかす児のはら恋ちにすつる身とも聞はや

『廻国雑記』は宗祇の著と信じられていた。

 尚々、此度、宗祇庵取立、美丸法師の旅寝の労をも休められ候半と御計(の)よし、御奇特成事(に)候。就夫、宗祇児原にて詠ぜられ候歌、しら波にうき名を流すちごの原恋路に捨る身とも聞かはや、と廻国雑記とやらんにあるよし。

『花盗人』(三井舎安席編)

京都の漂泊俳人美丸法師は「宗祇の古跡」として「児の原」を訪ねている。

歌枕にかり寝せしこゝも宗祇の古跡とて、予が旅寝の労をやすめんと、一茎艸をもつて大貫刹と自得したる安席雅丈、志に笠を脱ぎて、

渋張の笠繕うて安居かな
   定阿

『花盗人』(三井舎安席編)

児明神に芭蕉の句碑があった。


春立てまた九日の野山かな

出典は『笈の小文』

貞亨5年(1687年)1月13日、伊賀上野の小川風麦亭で詠まれた句。

芭蕉の句の左に「月杵」の句が刻まれている。

名月ハ罪なき人の鏡かな

月杵は俳諧を惺庵西馬に学ぶ。初号里椿。江戸に出て静堂月杵と号した。

 文政5年(1822年)、猿山村源太河岸(現在の成田市猿山)に生まれる。名は泰次郎。

明治15年(1882年)、61歳で没。

明治34年(1901年)4月12日、二世静堂可嘯建立。

二世静堂可嘯は久住村幡谷(現在の成田市幡谷)の人。香取喜兵衞。

明治34年(1901年)は月杵の二十回忌である。

權大教正三森幹雄書。幹雄73歳の時である。

「月杵」が句碑もあった。


静さやうへ見ぬ藤の花こゝろ

明治34年(1901年)2月15日、建立。春秋庵三木雄書。

西馬の句碑もあった。


五月雨ぬ樹はなかりけり児の原

慶応2年(1866年)11月、建立。

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