下つ総の国児の原といへる所あり。いかなるゆゑに、かゝる名の所は侍るぞと、さと人に尋ねければ、此の在所、白波青林横行の地たるによりて、ある少人のとほりけるに、衣装など剥ぎ取るのみならず、剰へ殺害し侍りき。夫より此の所をかやうに号し侍るよし語り侍れば、今更の心ちして、塚のほとりに立ちよりて、思ひつゞけて廻向し侍りける。 佳人落命荒原上 蘇底古碑空刻名 勿恨青林犯花影 浮生有限辱兼栄 白波に浮名をなかす児の原恋ちにすつる身とも聞かはや |
尚々、此度、宗祇庵取立、美丸法師の旅寝の労をも休められ候半と御計(の)よし、御奇特成事(に)候。就夫、宗祇児原にて詠ぜられ候歌、しら波にうき名を流すちごの原恋路に捨る身とも聞かはや、と廻国雑記とやらんにあるよし。
『花盗人』(三井舎安席編) |
歌枕にかり寝せしこゝも宗祇の古跡とて、予が旅寝の労をやすめんと、一茎艸をもつて大貫刹と自得したる安席雅丈、志に笠を脱ぎて、 |
渋張の笠繕うて安居かな | 定阿 |
『花盗人』(三井舎安席編) |
里椿 一号万秋庵 東都山下町 椿岱次郎 もう立に間のなき声の巣鳥かな 里椿 |
文政5年(1822年)、猿山村源太河岸(現在の成田市猿山)に生まれる。名は泰次郎。 明治15年(1882年)、61歳で没。 明治24年(1891年)8月24日、三森幹雄は椿月杵十年祭俳諧式に出席。 明治34年(1901年)4月12日、二世静堂可嘯句碑建立。月杵の二十回忌である。 |