芭蕉の句碑


身丹志み亭大根からし秋乃風

松本市会田は善光寺街道会田宿。


 天明3年(1783年)8月13日、菅江真澄は姨捨山の月を見に出かけ会田宿に泊っている。

會田の驛に至りて、夕近ければ宿つきたり。

『わがこゝろ』

善光寺街道を上ると、右手に芭蕉の句碑があった。


身丹志み亭大根からし秋乃風

出典は『更科紀行』

 貞亨5年(1688年)8月11日、芭蕉は美濃の国を発ち、洗馬宿で善光寺街道に入り姨捨山に向かった。

嘉永2年(1849年)9月12日、雪松翁一翠建立。梅室書。

 桜井梅室の弟子である矢久村(現在の四賀地区矢久)の西沢梅朗が梅室に書を依頼し、長越村(現在の四賀地区中川地区)の松翁亭中村一翠が建立したもの。

明治8年(1875年)11月18日、一翠没。

芭蕉句碑の手前に「松澤喜一塚」があった。


嘉永3年(1850年)、建立。

松澤喜一は会田で寺子屋を開いて書や剣術を教えていたそうだ。

 嘉永5年(1852年)、所沢下新井村13名の村人は伊勢詣の帰りに善光寺街道を上り、「喜一塚」を見ている。

会田宿壹り十町。吉川屋吉藏。晝食六十四文。

此間立峠といふ有、登り壹り右側喜一塚と言う有、次大キなる岩山、爰寺有、百觀音あり、是よりなん所なり

『嘉永五年正月二日 道中日記』

芭蕉の句碑のことは書いてない。

岩井堂の観音堂


麻績村の法善寺を1番とする信濃三十三番札所の20番。

 周辺の岩山に百体観音のうちの52体をはじめ、69体の石仏が確認されているそうだ。

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