翁 塚
「俳諧三祖塔」
新潟市秋葉区中村に「俳諧三祖塔」があるというので、訪ねてみた。
民家の庭の植え込みに「俳諧三祖塔」があった。
桂家四代誉章(たかあき)(1734〜1796)は、俳句を新発田の俳人画一庵コ虹(※「コ」=「サンズイ」+「午」)(1698〜1774)に学び、遊字庵些兮(さけい)と号した。画一庵コ虹は美濃派の各務支考が越後を行脚したときにその門人になったが、支考没後は新津を訪れたことがある美濃派獅子門二世である盧元坊里紅に師事した。誉章は『俳諧十論衆儀拾遺』を編集し、安永2年(1773年)に京都の橘屋から刊行した。晩年である寛政5年(1793年)には、秋葉山円通閣の隣地に「俳諧三祖塔」を建立した。三祖塔は「芭蕉翁」「梅花仏」「盧元法師」と彫った3基の石碑からなっており、近世越後の文学史を研究するうえできわめて有益な資料である。
寛政6年(1794年)、『俳諧三つの手向』(些兮編)刊行。
聊その報恩にもと三祖の石碑造立を志し、安永のはしめ上京のつゐて伊州上野築山氏にたより故翁生産の地上野赤坂といへる所の石をもとめ、鑑塔ハ濃州北野の各務氏により其地の産石にてそこの大智寺なるを模し、黄リ師(※「リ」=「麗」+「鳥」)の碑ハ洛東白河石にて双林寺の碑をうつし三碑調ひしに故ありて造立の期延引せしか、ことし寛政癸丑故翁一百回忌の時を待郷の秋葉山円通閣の境内に造立し、
「寛政癸丑」は寛政5年(1793年)。
「芭蕉翁」
伊州上野石
『諸国翁墳記』に「芭蕉翁 越ノ後юV津桂些兮建 故翁生産の地上野赤坂の石をもて為石牌 新津ノ卿秋葉山圓通閣の境内ニ在」とある。
「梅花仏」
濃州北野石
「盧元法師」
洛東白河石
享保20年(1735年)、盧元坊が新潟を訪れ、コ虹は門人となる。
桂家四代誉章は京都で書籍を収集し、邸内に文庫「萬巻楼」を造る。
寛政8年(1796年)5月22日、没。
文化7年(1810年)10月、亀田鵬斎は桂家を訪れ「萬巻楼記」を著す。
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