芭蕉の句碑
このあたりめにみゆるものは皆涼し
岐阜市湊町の長良川沿いに「十八楼」(HP)がある。
「十八楼」に入ると芭蕉の俳文「鵜舟」が刻まれていた。
きふの庄なから川のうかひとて
|
よにことことしう云のゝしる
|
まことや其興人のかたり伝
|
ふるにたかはす淺智短才
|
の筆にもことはにも尽へきに
|
あらす心しれらん人に見せ
|
はやなと云てやみちに
|
かへる此身の名こりおしさを
|
いかにせむ
|
|
おもしろうてやかてかなしき鵜舟哉
|
|
芭蕉翁
|
貞亨5年(1688年)6月、岐阜滞在中の作。
『芭蕉翁真蹟拾遺』による。
「十八楼」ロビーの壁には「十八楼の記」が刻まれていた。
みのゝくになから川に望て水樓あり、あるしを加島氏といふ。いなは山後にたかく、乱山両(西)に重りて、ちかゝらす、又遠からす。たなかの寺は痰フ一村にかくれ、きしにそふ民家は竹のかこみのみとりも深し。
さらし布所々に引はへて、右にわたし舟うかふ、里人の往かひしけく、魚村軒をならへて、あみを引き釣をたるゝを(お)のかさまさまも、たゝ此楼をもてなすに似たり。暮かたき夏の日もわするゝはかり、入日の影も月にかはりて、波にむすほるゝかゝり火のかけもやゝちかうなりて、高欄のもとに鵜飼するなと、誠にめさましき見物なりけらし。かの瀟湘の八のなかめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり。若此楼に名をいはんとならは、十八楼ともいはまほしや。
はせを
このあたりめにみゆるものは皆涼し
貞享五仲夏
貞亨5年(1688年)6月8日、『笈の小文』の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれ、「十八楼の記」を書いた。
賀島善右衛門は岐阜蕉門の一人で、俳号鴎歩(おうほ)。
「貞享五仲夏」とあり、芭蕉の美濃来訪を5月とする説もある。
明和4年(1767年)5月7日、上矢敲氷の日記には次のように記されているそうである。
さつき七日は母必のぬし故郷の十八楼に祖翁の頭陀をおろし給ひける日なりとてその旧雅をわすれさるけふの会筵にまかりて
此あたりゆかしき音や五月闇
母必は鴎歩の次男あるいは孫、半峯亭。明和初年ごろ甲斐に入り、天明5年(1785年)、没。
「十八楼」の庭に芭蕉の句碑があった。
このあたりめにみゆるものは皆涼し
「十八楼ノ記」は『笈日記』に収録されている。
大正14年(1925年)7月18日、荻原井泉水は「十八楼」で芭蕉の句碑を見ている。
「このあたり」の句は石に刻して、この旅館「十八楼」の庭に立ててある。芭蕉の記にある通り十八楼という名は芭蕉がつけたので、さらりとして面白い名である。但し、瀟湘八勝西湖十境を併せたほどの風趣があるとは、ちと賞めすぎたようである。
『随筆芭蕉』(稲葉山と長良川)
山口誓子は、「小川屋旅館」で芭蕉の句碑を見ている。
この句碑が、寛政十二年、十八楼の地に建てられた。ところが、大正の中期に松井氏がその地を買い取り、川畔を埋め立てて旅館を経営、句碑の位置を変えたりしたが、その後その地を手離すことになり、句碑を親戚の小川屋旅館に預け、現在に至っている。
小川屋は同じ岸つづき、長良橋のすこし上手にあって、門を入った左に、自然石のその句碑が立っている。長良川の川石だそうだ。大胆な書で、「此あたり」など読み難い。
私は旧十八楼へも行って見た。対岸の山々は、「十八楼ノ記」の「乱山西に重りて、ちかからず遠からず」そのままの眺めだった。
芭蕉の句碑に戻る